悲しい事件2014年07月29日 22:13

 佐世保市で、高1の女子生徒が同級生を殺害したという事件。

 報道では「人を殺してみたかった」と供述しているという。

 そういう考え方を特にタブーとも捉えずにしてしまう人はいるらしいし、共感できないからと言ってそういう存在を世界から完全に抹殺するというのも難しい。

 しかし、もし今回罪を犯した女性がそういう性質をアプリオリに持っているわけではなく、アプライオリに身につけたとしたら…

 人の死は記号ではない。人の生(性)もまた同じで、記号ではない。

 人が病院で生まれ、病院で死ぬこのご時世に、生死を皮膚感覚で感じることは難しいかも知れないが、それでもはやり、命の発生と終焉とには、人生の早い時期に立ち会わせるほうがいいのではないか。トラウマを恐れるあまり、生死から子供を遠ざけるのはかえって問題ではないだろうか。

 生死は記号化させてはならない。子供は生まれれば全身で愛情を注ぎ、失えば深く心に傷を負いながら悼むもの。老いた人に対しても同じだ。

 ゲームでは死の扱いは軽い(マリオの死はひょうきんな音と落下アニメーションだけ、というより、あれを死と認識する人はどれだけいるだろう)。重い扱いの死には残酷シーンということで規制がかかる。世間でもてはやされるアニメでは戦争の狂気と死は彼方に追いやられ、殺菌消毒済みの「目黒のさんま」のようなおめでたい少年少女(幼女?)が幅を利かせる(だれの作品か、おわかりだろう)。学校では「家族計画」を教え、「失敗」すると「妊娠」するという、なんとも生きものとしては倒錯した考え方が世の主流になっているように思う。「ゲーム悪の権化論」などという底の浅い話ではない。現実に近いものを覆い隠し、綺麗事をよしとして子供に垂れ流す風潮のことを言っている。

 人間だって、「いきもの」なのだ。記号の世界の僅かな薄膜の向こうには、ドロドロとした、恐ろしい、生きるか死ぬかの世界が常にある。

 いい加減、記号の世界を捨てて、現実の、ドロドロとした、生々しく、皮膚で世界を感じる人間に立ち戻りたいものだ。そんな感覚を持つことができたなら、「人を殺してみたかった」という言葉が口をついて出てくることへの戦慄も、もっと皮膚感覚で我々に迫ってくるのではないだろうか。

 人を殺してはいけない。それは恐ろしいことだからだ。
 死を望んではいけない。死は恐ろしいものだからだ。

 この恐ろしさを子どもたちにきちんと教えるのは、生きものとして、最も大切なことなのではないか。