「嘆きの天使」鑑賞2015年01月27日 07:25

「嘆きの天使」を鑑賞

1930年制作、有名な作品の中でいくつか、有名なので名前はよく知っているが、鑑賞するご縁がないという作品があるが、これはその一つ。

1930年という時代を考えると、ローラローラ(ディートリッヒ)のお色気が当時の男に与えた刺激は、現代人の我々が感じるものの数倍(数十倍? 数百倍?)はあっただろう。そこは現代の鑑賞者として割り引いて考えるべきだ。それでも現代人にとって陳腐化するわけではない魅力があるのは事実。

ギムナジウムの悪ガキどもがまた、今でもいそうなクソガキっぷり。ヘタレなやつ、生意気なやつ、徒党を組んでいきがって、妙なところでクソ真面目。最近の若いやつはなんて言葉は虚しい。80年以上前のドイツのギムナジウムの悪ガキも、現代の悪ガキも、大して変わらない。

ラート教授(ヤニングス)のだらしなさ、不器用さ、のろまさ、頑固さ。学生にそっぽを向かれ、いい年をして独身なのがよくわかる。その人間的な「隙」に、それまで触れることのなかった「女」の魅力が飛び込んだ時、彼は堕ちてしまう。あとは頑固さと不器用さで転落の一途へ。シェークスピアを教えているくせに、彼は何も学んでいないかのようだ。論語読みの論語知らずとでも言おうか。

堕ちっぷり、そして末路。幸せなボケっぷりから狂気と妄執へと。鬼気迫るというのはこういうことか。最後の最後まで、ラート教授は未熟なだだっ子のままだ。そこが彼の悲劇といえる。

ファム・ファタール映画と呼ばれることもある作品のようだが、むしろ未熟な男の自業自得のような印象が残った。