「劇場版 PSYCHO-PASS」鑑賞2015年02月01日 06:28

「 劇場版 PSYCHO-PASS」を鑑賞。

公開3週目、夕刻の上映にも関わらず、満席の可能性があるとチケットブースで告げられる。たしかに観客は多かった。ヒットしていることは間違いがなさそうだ。

TV第1期が直接のストーリーラインとしてつながっているので、第1期のストーリーがわかっていればより入り込みやすいだろう。

狡噛は本領発揮といったところ。彼が憎むのは、自己を拡大し、他者を容認せず、他者のすべてを奪い去る「権力」そのものだろう。したがって彼の行動は常に「自由」の希求となり、「反体制」の側に立たざるを得ない。「自由」の希求は対価として「孤独」を余儀なくされるが、狡噛の場合、それを受容する覚悟のようなものがあり、また、「自由」を希求できる強さのない弱者に対しての強い慈愛がある。彼にとって「弱者」は「クズヤロー」なのだが、それでもその中に「愛すべきクズヤロー」の存在を認め、それを守るためにはすべてを捨ててしまう。第1期でシビュラシステムの擁護の立場に立ったのも、シビュラシステムの特性として、弱者の救済が成立し得たからであり、シビュラが弱者を救済し得ない矛盾を露呈した時、彼は自分の社会の中での存在を捨てる。非常にストイックなキャラクターであり、ある意味正統派のヒーローのような気がする。そういうヒーローを量産したのは石ノ森章太郎(但し原作に限る)だ。そう言えば声優を務めた関智一は「人造人間キカイダー the Animation」ではジロー=キカイダーを演じていた。一方、狡噛の宿敵、槇島を演じたのは櫻井孝宏、3代目の島村ジョー=009。

一方の常守は、すっかりタフに。もともとセクシュアリティが希薄でユニセックス、イノセントな風貌だったので、シャワーシーンなどのサービスカットもあるが、性的な符号は希薄。狡噛とは本質的に強い類似性を持っているが、彼よりもさらにイノセントで、それ故のミスも多い。弱者の側に立ち、矛盾と危険に満ちたシビュラシステムを批判しながらも受容する、清濁併せ呑む存在。イノセントな状態からダークサイドを受容しつつ弱者を守るという点で、狡噛とは理解し合いながら、共闘し、また別れもする。この2人は「和して同ぜず」といったところ。いい相棒となった。イノセント状態からダークサイドを受容し、常に悩みながら生きていくという設定は、まさに「ジロー=キカイダー」そのものであり、ここにも声優キャスティングとの暗合(もしかして意図的か?)を感じる。

ノイタミナの劇場作品第1作として、十分なクオリティを持っている。もちろん、この後に続く伊藤計劃の「虐殺器官」「ハーモニー」そして「屍者の帝国」3作は、この作品と伍するか、それ以上のものを求められることになるだろう。高いハードルとなったが、それを越すだけの作品を生み出せるという制作側の自信の現れなのだろうか?伊藤計劃作品のアニメ化(実写化はいまの日本の芸能界の状況ではまず絶望的)というリスキーな企画を発表した時点で、覚悟は座っているのだろう。

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