一太郎/ATOK2015年02月07日 23:48

 縦書きで日本語を扱う場合や、こちらの自由度を高めた日本語入力が必要な場合、一太郎にかなうワープロアプリはないと思う。
 wordはタイプライターのアナロジーなので、勝手に段落を判断しては行間をいじってみたり、余白と段組や字数を責め込みづらかったりと、小さな親切大きなお世話といったところがあるが、最大の欠点は、罫線という概念が本質的にない点だ。wordは表を挿入するという概念で罫線を扱うので、思うところに思い通りにランダムに罫線を引いて枠を作るというわけにはいかない。
 一太郎は手書きアナロジーなので、罫線ノートに手書きの感覚での入力がしやすい。これは大きな強みだ。

 但し、残念ながら、日本語を常時使用する人間の数は世界人口の中の極々少数であり、さらに、一太郎の機能が必要不可欠な日本語入力を求めている人数はさらに少数。資本主義世界では、無視できるほどの存在でしかない。オフィスでの書類程度に求められる日本語レベルなど、ボキャブラリーを除けば小学校レベルで十分であって、その程度ならwordで対応できる(オフィス書類の日本語表記も、よく見ると小学校レベルの記載ルールを逸脱している点が多い。文頭がすべて面一な文章などを見ると、がっかりするが、それがおかしいということに気づく社会人は実はかなり少ない)。

 MS-IMEの変換能力の低さは一時ほどひどくはないものの、無視できるほどのものとは言いづらいので、ATOKは一太郎よりもいくらか普及度が高いようだ。こちらには方言変換能力と文語変換能力があるので、日本語をディープに扱う場合は不可欠なIMEと言えるだろう。しかし有料なので、Windowsに同梱される(見かけ上無料の)MS-IMEを放棄してまで購入する一般ユーザは少数派だし、MS-IMEの変換能力しか知らないユーザにとっては、当然ATOKとMS-IMEとの差はわからない。

 私はwindowsを信用できない(アップデートの度に再起動を要求されるのがうっとおしい、アップデートすると不安定状態、最悪の場合は起動不能になったりする、使っているうちに不安定になる自滅要素、起動サウンドがどうも人をバカにしているような気がして気に入らない…もちろん最後の理由は冗談だが)ので、プライベートではLinuxを使っている(Macもハードウェアやアプリケーションの自由度の低さ、拘束性の強さゆえ信用していない)。現在使っているUbuntuではATOKは相性が良くない。もちろん一太郎もWineでは現行バージョンは使えない。一太郎forLinuxもすでに古くなって対応しない。そして、職場から一太郎とATOKは追放されていく。Windowsと抱き合わせのMS-IMEとwordがあるのに、さらに予算をつぎ込んで類似機能の一太郎とATOKを購入するのは経理上不合理だと言われれば、不要なコストをカットするという視点では、反論の余地はない。現に一般の職場ではMS-IMEとword程度の日本語処理能力で十分な日本語しか求められていないというのは前述のとおり。

 UbuntuのLibreofficeでwriterを使うのはwordを使う以上に縦書き時には不自由だ。結局Mozcでエディタにテキストを横書きでベタ入力をしたあと、しぶしぶPCを再起動してWindowsをブートしなおし、一太郎を起動してテキストを読み込み、書式設定で縦書に置き換えて編集している。一太郎を利用する以外、Windowsなど使うことなどプライベートでは皆無だ(このブログもUbuntu-Firefox-Mozcで作成している。そして、この程度の文章ならMozcでもなんとか対応できる。だが、ATOKが使えないストレスは無視できない)。文語や会話体が多い文章を処理する場合は、最初から諦めてWindows-一太郎-ATOK環境にせざるを得ない(そしてWindowsの再起動責めにイライラする)。

 オープンソースに日本人が携わる数は非常に少ない。日本語は世界的には少数言語であり、このままでは日本語にきちんと対応するPC環境は貧弱化の一途だろう(現にMicrosoftのIME開発は日本ではなく中国に移管されているという話だ)。

 一太郎がwineに対応できる可能性はあるはずだ(一太郎 for Linuxの正体がチューンしたwineに載せたWindows版一太郎だったことは周知の事実)。ATOKの方言・文語変換も失われていい機能ではない。だが、資本主義の世界で営利活動をする以上、現状ではWindows環境でしか動かない一太郎と、先細りのATOKは生き残ることが難しいだろう。そして、多くの日本人は、タイプライターアナロジーで横書きの日本語を、他国で開発した日本語IMEで叩き出し、日本語もそれに応じたものに変化していってしまう。横組み出版されているケータイ小説のように。

 どこかで両アプリケーションをオープンソース化しなければならないのではないかと思う。収益モデルをどう構築するのかは難しいが、UbuntuやRedhatなどを考えれば、不可能ではないとも思う。もはや一太郎とATOKは商品ではなく、日本語を電子化するための文化資産として、価値体型を変換すべき時期に来ているのではないだろうか。生き残りのためには、Windowsのみに依存するのではなく、どのようなPC環境であっても使用できる、オープンな存在にしてもらいたいと思う。

 もっとも、ここまでの議論はあくまで現在の一太郎・ATOKがサポートしている日本語作成環境が保持されるべきであるという考えが前提である。wordとMS-IME(現時点でのMozcも同様)がサポートする日本語作成環境に今後日本語作成の実態が移行することを、日本語が容認する形で変化していくというのであれば、これまでの話はただの懐古主義(現代において旧仮名遣い・旧漢字を頑なに使い続けるのと同じ)に過ぎない。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://crowfield.asablo.jp/blog/2015/02/07/7567331/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。