自戒を込めて2015年02月24日 01:15

 ウェブを見ながら思うこと。

 レビューやコメントを見ると、賛否両論がたくさんアップされている。それは当然のことだ。

 しかし、賛成意見の中には、時には首を傾げたくなるようなものもある。本気で賛成なのか、それとも賛成に見せかけた皮肉なのか。

 否定論ともなると、首を傾げてしまうものが目立つように感じる。反論のための例証を挙げるのはよいが、それがどう見ても適切なサンプリングによった例とは言えないもの、明らかに誤読、または知識不足であるもの。

 一番見ていて辛いのは、コメントをアップした当人の知識や見識が、明らかに不足している場合だ。この状態で否定論を提示するとすれば、自己の不明を正当化するために、否定する相手の言論を、強弁で切り捨ててしまうしかないのではなかろうか。

 自分が否定的に受け止める作品や言論は、もしかしたら自分の不明のために正しい理解に至っていないのではないか。常にそういう不安を抱えながら意見を発する姿勢が必要だろう。意見はブレないのが素晴らしいという考えもあろうが、それは逆に言えば成長がないということだ。成長する必要がない、それほど早熟で大成されている、そんな人間も皆無とは言えないだろうが、無視できないほどの多数派であるとはとても思えない。

 評論家は「良いと思うものはたくさん褒め、良くないと思うものは少しだけ褒める」というのを、ずいぶん昔にどこかで目にしたことがある。否定論は慎重の上にも慎重に。

 そして、簡単に望み通りの解答が手に入るというウェブへの幻想もそろそろ止めにしておこう。人は当たり前のことに対しては感謝しない。当たり前でない好意に触れて、初めて感謝の気持ちが生まれる。当たり前と思っていたことが思い通りに起きないと、不満や恨み、怒りが生まれる。ウェブも人が作るもの。神仏の御託宣があるわけではない。

 要は自分で学び、自分を磨き、自分を鍛えること。ウェブはツールであって、賢者の石ではないのだ。その上で、物事への賛否は慎重に、そして柔軟に行うことを心がけよう。