「アルトゥーロの島」「モンテ・フェルモの丘の家」読了2015年03月04日 22:27

 「アルトゥーロの島」「モンテ・フェルモの丘の家」を読了。

 「アルトゥーロの島」は、どうしようもない、ハンサムな父親を絶対偶像視する少年が、大人への移行を遂げる2年の間の告白。教育も受けず、イタリアの孤島で本と自然とめったに帰らない偶像化された父親と過ごす少年アルトゥーロ。その生活はわずか数歳しか違わない父の再婚相手の出現で揺らぎはじめる。

 アルトゥーロの暴走ぶりがなんとも。自分ではいっぱしの人物のようなつもりの告白文だが、突き放してみてしまうと、なんとも未熟でおめでたい。そして現実の(大人の)世界は、暗雲垂れ込める戦争と闇と混乱の中に進もうとしている。大人になることがバラ色ではないという世界観は、現代とも通ずるものだろう。

 「モンテ・フェルモの丘の家」は、打って変わって大人の物語。すべてが登場人物たち相互の書簡の体裁となっている。そしてその書簡の中身が、それぞれ微妙にずれている。同じ事件に言及しながら、微妙な見解のずれがあり、そこに登場人物たちのエゴや偽り、虚無や絶望が現れてくる。

 わずか数年の間に移り変わっていく、かつて若い頃共同で擬似家族を形成していた男女。すでに若くもなく、かつての関係も次第に変質し、崩壊してく。若い世代は不条理なまでの暴力によって破壊され、解体していく主人公たちの擬似家族を繋ぎ止めるものはない。

 「アルトゥーロの島」が、第二次大戦前夜の不安な世界を描くのに対して、「モンテ・フェルモの丘の家」は第二次大戦後の現在の家族や社会の崩壊を描いている。なんとも寂しい、そんな2作だった。

ジョセフ・コンラッド「闇の奥」読了2015年03月08日 17:37

 ジョセフ・コンラッド「闇の奥」(中野好夫訳・岩波文庫)を読了

 コッポラの「地獄の黙示録」の原作としても有名だが、映画がベトナム戦争の狂気だったのに対して、原作小説はアフリカの奥地となっている。

 1899年発表の原作では、まだまだアフリカは未踏の地多き土地として扱われている。その最奥部で活躍するやり手の象牙採取人、クルツ。象牙を運搬して、自分のあずかる出張所から、フランスの貿易会社の現地営業所に移動する途中、突如出張所へ単身引き返し、消息を断った彼を捜索に行く、イギリス人の船員、マーロウ。

 暗黒大陸アフリカの最奥部は闇の支配する世界。そこにひきよせられる、不思議な魅力を持つクルツ。マーロウはクルツの噂だけで彼に惹かれていく。しかし、アフリカの「闇の奥」は、クルツ自信の心の「闇の奥」と共鳴し、マーロウに底知れぬ心の闇を見せつける。

 全体はイギリス帰国後、テムズ川の遊覧船に乗り組んでいるマーロウの回想譚となっている。そして、このテムズ川の流れて行く先は靄、ロンドンは暗雲立ち込める闇。冒頭のこの設定は、アフリカでクルツと出会う時のイメージと完全に重なり、イギリスに象徴される近代文明そのものの持つ底知れぬ「闇の奥」を思わせる。

 そして、「闇の奥」は、だれの心の中にも潜んでいる…

 200ページにも満たない作品だが、その内容は重い。

「上海特急」鑑賞2015年03月16日 23:56

 1932年のアメリカ映画「上海特急」を鑑賞。

 戦前の中国を舞台とした作品。雑然として、西欧化も完全に進んでいない中国の、混沌としたイメージは伝わってくる…などと固いことを言うのはお門違いだ。ハリウッド(というよりアメリカの)中国やフランス・ドイツ蔑視をどうのこうのというのも野暮。当時の視点はそういうものだし、それをとやかくいうのは現代人の岡目八目に過ぎない。

 これはマレーネ・ディートリッヒを見る映画だ。

 ストーリーの起伏も乏しいし、悲劇性もない(というより、ラストはラブコメ並みのハッピーエンド)。だからなんだというのだ。ディートリッヒは美人だ。妖艶でもあり、キュートでもあり、幼くもあり、大人でもあり、悪女でもあり、貞女でもある。たかだか80分の作品の中で、これらすべての女を見事に演じることができる女優がいる。そんな女優のためだけに作られた映画。

 でも、中国娘役の女優もけっこう魅力的。

 頭を空っぽにして、文句なしの美女を観る映画。最高の贅沢とは言えないだろうか。

ウルフ「灯台へ」/リース「サルガッソーの広い海」読了2015年03月23日 23:19

 ヴァージニア・ウルフの「灯台へ」、ジーン・リースの「サルガッソーの広い海」を読了。

 「灯台へ」は、精緻な意識の流れと複数の登場人物の語りの重奏やシームレスな推移が特徴だった。正直少々苦戦した。オペラなら重唱や輪唱、フーガ的な手法なのだろうが、リニアな情報伝達手段である小説では、やはり軽く読むには敷居が高い。「ヴァージニア・ウルフなんて怖くない」なんて本もあったが、いやいや、なかなか手強かった。

 だからといって敬遠するのはもったいない。時代の移り変わり、世代の移り変わり、喪失の哀しみと、明日への希望とが渾然一体となったこの作品の読後感は爽やかである。

 「サルガッソーの広い海」は、それに比べると、遥かに普通のスタイルの小説(ただし第三部はそうは行かないが…)だ。「ジェイン・エア」を本歌取りしている作品だが、それを知らなくても十分楽しめる(が、知っていればさらに楽しめる)。

 人の中に狂気があるのではなく、周囲や社会が人を狂気に追い込んでいく。しかし、周囲や社会もまたある意味で狂気を孕んでおり、そこにはすでに善悪などいう牧歌的な二元論ではどうにもならない闇がある。テーマは重く、それでいて世界は美しく、またグロテスクでもある。

 我々には植民地生まれという存在の位相がよくわからない(わかるほどの長い期間、日本は植民地的な場所を保ち得なかった)。「サルガッソーの広い海」や、デュラスの「太平洋の防波堤」などを読むと、植民地生まれのヨーロッパ人の不安定な位相が伝わってくる。

 よい小説だった。しかし疲れた。ぶっ飛んだSF小説が読んでみたくなった(ブラウンとか、シェクリー、ラファティあたりがいいなぁ…)

ネット上のコメントについて2015年03月28日 22:58

 ネット上は、様々なコメントや批評のるつぼだ。

 職業としてコメンテーターをやっているわけではないので、お株持ちのコメントをする必要などさらさらないのだが、ネガティブなコメントをわざわざ表明する必要もまた、ない。よほど腹に据えかねた、といった場合はネガティブなコメントもしたくなるだろうが、まあ、一旦頭を冷やしてからコメントしたほうがいいだろう。そのほうがより冷静かつ容赦なく怒りを公表することができる。

 ネガティブコメントの際に怖いのは、コメントをする側の能力の低さゆえのネガティブ判断がありうるという点だ。何かに対してネガティブな受け取り方をしたとしても、それが実は自分の管見に起因するものではないかと、自分自身に対する分析的な視点を持つ必要があるだろう。

 ネットでのコメント発信は(このブログも含めて)非常に容易で、だれにでもできる。だが、自分のバカさ加減を世界中にばら撒くのもまた容易だし、それはまっぴらゴメンだ。醜態を晒す前に、ひと思考、ひと思案。