Windows8.1 ― 2015年04月02日 05:56
職場のPCが更新されて、悪名高いWindows8.1をOSとしたものになった。
起動後にでかでかと時刻を知らせる画面が現れて変化しないので、ログインまでにひと手間増えるわ、スタートボタンから直接プリンタ設定に行けないわ、挙動に妙な遊びがあるわ、まあ、仕事をする上で鬱陶しい事この上ない。
おまけにMS-Officeのクラウド版。起動がもっさり。おまけにまた仕様変更で、やっと慣れた左上の窓マークが消滅。リボンのカスタマイズができると言いながら、デフォルトのメニューは従来版より貧弱で、すぐに使える状況とは言いづらい。ファイル操作関連は、ペインが変わってしまい、作業画面が消えてしまうので、抵抗感が大きい(「名前をつけて保存」を見つけ出すまでしばらくかかった)。
PCはすべてがプライベートに使うものではないのだから、業務に差し支えるようなインターフェースの頻繁な変更はやめてもらいたいものだ。相変わらずの暴君ぶりにあきれ果ててしまう。
”Windowsエイト”ではなく、”Windowsぱぁ”と呼ぶことにしてやろう。
起動後にでかでかと時刻を知らせる画面が現れて変化しないので、ログインまでにひと手間増えるわ、スタートボタンから直接プリンタ設定に行けないわ、挙動に妙な遊びがあるわ、まあ、仕事をする上で鬱陶しい事この上ない。
おまけにMS-Officeのクラウド版。起動がもっさり。おまけにまた仕様変更で、やっと慣れた左上の窓マークが消滅。リボンのカスタマイズができると言いながら、デフォルトのメニューは従来版より貧弱で、すぐに使える状況とは言いづらい。ファイル操作関連は、ペインが変わってしまい、作業画面が消えてしまうので、抵抗感が大きい(「名前をつけて保存」を見つけ出すまでしばらくかかった)。
PCはすべてがプライベートに使うものではないのだから、業務に差し支えるようなインターフェースの頻繁な変更はやめてもらいたいものだ。相変わらずの暴君ぶりにあきれ果ててしまう。
”Windowsエイト”ではなく、”Windowsぱぁ”と呼ぶことにしてやろう。
LibreOffice Calc印刷不能 ― 2015年04月02日 22:41
ubuntu 14.04 LTSにLibreOffice 4.2.8.2をインストールしている。普段はDrawでBDのケースジャケットを作成、印刷する以外、CalcやWriterで印刷するようなことはなかった(Writerは開くこともほとんどない)。
ubuntuではデフォルトでLibreOffice Base(データベース)がインストールされていなかったので、ubuntuソフトウェアセンターからBaseをインストールして、録画BDのデータベース作りを少しずつ始めた。ある程度データがおさまったので、BDの現物を整理するために、Baseからクエリで取り出したデータをCalcにコピーして、体裁を整えて印刷しようとした。ちなみに、プリンタはCanonのMG6530である。
ところが、出力されるのは白紙ペーパー。
問題を切り出してみた。Calcで印刷コマンドを打つと、プリンタは反応して白紙を吐き出す。つまり、Calcからプリンタへは何らかのコマンドが送信されている。
次に、geditやFirefox、Thunderbird、LibreOffice Drawからも通常通りプリントアウトできるわけだから、プリンタとPC、またはubuntuとの間には問題はなさそうだ。
となると、問題のありかはLibreOffice Calcの印刷設定の中にありそうだ。ここでしばらく悩むことになる。印刷コマンドやプリンタ設定に問題がないとすれば、LibreOfficeの設定自体に何か問題があるのかも知れない。
そこで、「ツール」→「オプション」を開くと…左側のメニューの5段目に「印刷」とある。ここを見ると、見慣れない項目にチェックが…「PDFを標準の印刷フォーマットに(P)」である。LibreOfficeはPDFとの親和性が高いので、これがデフォルトになっているようだ。しかし、普通に表計算シートを印刷するのに、PDFをデフォルトにする必要はない。
そこで、「PDFを標準の印刷フォーマットに(P)」のチェックを外して「OK」をクリックすると、設定を反映するためにLibreOfficeを再起動する必要があるとメッセージ。迷わず再起動。
再起動したLibreOffice Calcで再度従前の作業を行い、印刷コマンドを…今度は印刷成功。やっぱりPDFのデフォルト指定がプリンタと噛み合っていなかったらしい。逆にDrawはPDFがデフォルトでも問題なかったわけだから、LibreOfficeの印刷時のPDF設定は、MG6530に対して、単なるテキスト相手には少々問題があるようだ。
ubuntuではデフォルトでLibreOffice Base(データベース)がインストールされていなかったので、ubuntuソフトウェアセンターからBaseをインストールして、録画BDのデータベース作りを少しずつ始めた。ある程度データがおさまったので、BDの現物を整理するために、Baseからクエリで取り出したデータをCalcにコピーして、体裁を整えて印刷しようとした。ちなみに、プリンタはCanonのMG6530である。
ところが、出力されるのは白紙ペーパー。
問題を切り出してみた。Calcで印刷コマンドを打つと、プリンタは反応して白紙を吐き出す。つまり、Calcからプリンタへは何らかのコマンドが送信されている。
次に、geditやFirefox、Thunderbird、LibreOffice Drawからも通常通りプリントアウトできるわけだから、プリンタとPC、またはubuntuとの間には問題はなさそうだ。
となると、問題のありかはLibreOffice Calcの印刷設定の中にありそうだ。ここでしばらく悩むことになる。印刷コマンドやプリンタ設定に問題がないとすれば、LibreOfficeの設定自体に何か問題があるのかも知れない。
そこで、「ツール」→「オプション」を開くと…左側のメニューの5段目に「印刷」とある。ここを見ると、見慣れない項目にチェックが…「PDFを標準の印刷フォーマットに(P)」である。LibreOfficeはPDFとの親和性が高いので、これがデフォルトになっているようだ。しかし、普通に表計算シートを印刷するのに、PDFをデフォルトにする必要はない。
そこで、「PDFを標準の印刷フォーマットに(P)」のチェックを外して「OK」をクリックすると、設定を反映するためにLibreOfficeを再起動する必要があるとメッセージ。迷わず再起動。
再起動したLibreOffice Calcで再度従前の作業を行い、印刷コマンドを…今度は印刷成功。やっぱりPDFのデフォルト指定がプリンタと噛み合っていなかったらしい。逆にDrawはPDFがデフォルトでも問題なかったわけだから、LibreOfficeの印刷時のPDF設定は、MG6530に対して、単なるテキスト相手には少々問題があるようだ。
学ばせないこと ― 2015年04月05日 07:13
学ぶことは、変わることだ。
情報を新しく手に入れ、それを処理し、再利用できるようにすることが学ぶことと言っていいだろう。このプロセスで学習者が学ぶ前と後で変化しなかったなら、学ぶことに意味はない。
当然、学んだ後には、それまで自分が存在した環境や社会との軋轢を感じることになる。そして、それを「より良い」方向へ変えようとするだろう。
もちろん「より良い」という価値判断は、学んだ後の立場で行われる。そして、社会のすべての構成員がみな平等に、同時に、同じ価値観を持つように学ぶということは困難だ。学ぶ内容も日々アップデートされ、知の賞味期限が短くなればなるほど、特に世代間の価値観のギャップは広がる一方となるし、学ぶ機会や能力差、意欲差もまたギャップを生む。
「子どもに学問をさせると、親の言うことを聞かなくなるから、あまり学問をさせるものではない。」という言葉をかつてよく耳にした。今でも地方部の保守的な層ではこの言葉は現役だ。すでに親の世代のパラダイムは現代の知の世界から取り残されているのだが、コミュニティが閉鎖的であればあるほど、また、新たなパラダイムが大きな変革を求めれば求めるほど、このような反動思想は強まる。
このような反動思想は、「学ばせないこと」を、様々な手法で人々に強要する。ケニアの大学での銃乱射事件の背景にも、そういう背景はあるのではないだろうか。
もちろん、そのようなきな臭い話だけではなく、身近なところにも「学ばせないこと」はずいぶん流布している。学歴は高くなっても、内容がそれに伴わない大学生。便利な機能を搭載しながら、逆に基本的な仕組みは見えなくなり、実質的にきちんとした機器の知識を習得する機会を奪っているOS。
消費者に対する気配りと、労働者の背景に家族と生活があるという基本を忘れ、短期の収益にのみ血道を上げた結果、スキャンダルを引き起こしたり、消費者から見捨てられてしまう企業の経営者などは、「学び」の歪みによって、本質的なことを「学ばせない」圧力のもとにいると考えられるのではないか。
逆に、消費者が学んだ結果、経営側に負担が増えるケースもたくさんある。食品の成分表示などはその典型だ。学べば、変わる。変わらざるを得ない。それを許さないのは、厳しく言えば学ぶことへの怠慢であり、「不寛容」そのものである。その裏には「昔は良かった」という、安易なノスタルジーがへばりついている。ノスタルジーの暴走は、まさに「反動」そのものだ。
情報を新しく手に入れ、それを処理し、再利用できるようにすることが学ぶことと言っていいだろう。このプロセスで学習者が学ぶ前と後で変化しなかったなら、学ぶことに意味はない。
当然、学んだ後には、それまで自分が存在した環境や社会との軋轢を感じることになる。そして、それを「より良い」方向へ変えようとするだろう。
もちろん「より良い」という価値判断は、学んだ後の立場で行われる。そして、社会のすべての構成員がみな平等に、同時に、同じ価値観を持つように学ぶということは困難だ。学ぶ内容も日々アップデートされ、知の賞味期限が短くなればなるほど、特に世代間の価値観のギャップは広がる一方となるし、学ぶ機会や能力差、意欲差もまたギャップを生む。
「子どもに学問をさせると、親の言うことを聞かなくなるから、あまり学問をさせるものではない。」という言葉をかつてよく耳にした。今でも地方部の保守的な層ではこの言葉は現役だ。すでに親の世代のパラダイムは現代の知の世界から取り残されているのだが、コミュニティが閉鎖的であればあるほど、また、新たなパラダイムが大きな変革を求めれば求めるほど、このような反動思想は強まる。
このような反動思想は、「学ばせないこと」を、様々な手法で人々に強要する。ケニアの大学での銃乱射事件の背景にも、そういう背景はあるのではないだろうか。
もちろん、そのようなきな臭い話だけではなく、身近なところにも「学ばせないこと」はずいぶん流布している。学歴は高くなっても、内容がそれに伴わない大学生。便利な機能を搭載しながら、逆に基本的な仕組みは見えなくなり、実質的にきちんとした機器の知識を習得する機会を奪っているOS。
消費者に対する気配りと、労働者の背景に家族と生活があるという基本を忘れ、短期の収益にのみ血道を上げた結果、スキャンダルを引き起こしたり、消費者から見捨てられてしまう企業の経営者などは、「学び」の歪みによって、本質的なことを「学ばせない」圧力のもとにいると考えられるのではないか。
逆に、消費者が学んだ結果、経営側に負担が増えるケースもたくさんある。食品の成分表示などはその典型だ。学べば、変わる。変わらざるを得ない。それを許さないのは、厳しく言えば学ぶことへの怠慢であり、「不寛容」そのものである。その裏には「昔は良かった」という、安易なノスタルジーがへばりついている。ノスタルジーの暴走は、まさに「反動」そのものだ。
ハリウッド映画の凋落 ― 2015年04月07日 05:56
ハリウッド映画の凋落が著しい。
大作との触れ込みでやってくる作品が頻繁にずっこける。渋い映画はもとより客が集まらない。娯楽大作も続編やリブートばかりで、飽きられてしまう。
おまけに予算も高く、シリーズ物さえ予算が立たずに制作のめどが勃たないこともあるという。
ずいぶん前からハリウッド映画はその予算の大きさと興業成功時の収益の高さで、かなり投機的な存在となっていた。その結果、スポンサーはより確実に売れる作品、つまりヒット作の続編やリブート、話題の原作の映画化に投資する傾向が高まっていた。
これでは制作する側も、観客よりスポンサーを、もっと言えば人よりカネを見て作品を作ることになる。観客そっちのけで作ったものに、いいものが生まれる道理はない。
かつてのアメリカン・ニュー・シネマや、低予算映画から、80年台のハリウッド映画の快進撃は生み出された。再びハリウッド映画が甦るには、低予算で良質な娯楽作品こそが求められるのだろう。
大作との触れ込みでやってくる作品が頻繁にずっこける。渋い映画はもとより客が集まらない。娯楽大作も続編やリブートばかりで、飽きられてしまう。
おまけに予算も高く、シリーズ物さえ予算が立たずに制作のめどが勃たないこともあるという。
ずいぶん前からハリウッド映画はその予算の大きさと興業成功時の収益の高さで、かなり投機的な存在となっていた。その結果、スポンサーはより確実に売れる作品、つまりヒット作の続編やリブート、話題の原作の映画化に投資する傾向が高まっていた。
これでは制作する側も、観客よりスポンサーを、もっと言えば人よりカネを見て作品を作ることになる。観客そっちのけで作ったものに、いいものが生まれる道理はない。
かつてのアメリカン・ニュー・シネマや、低予算映画から、80年台のハリウッド映画の快進撃は生み出された。再びハリウッド映画が甦るには、低予算で良質な娯楽作品こそが求められるのだろう。
アナログレコード復権 ― 2015年04月08日 22:50
アナログレコードが復権している。
久々に出かけた町中の某フランチャイズCDショップの一角に、なんとも懐かしいLPレコードのコーナーができていた。簡易なカートリッジもその脇で販売されていて、若者が何人か集まっていた。
箱の中に取り込まれて、どう動いているかが物理的にわからないCDよりも(かつてはミラーで回転状態が見える機種もあったが、その回転の速さを見て、CDプレーヤが壊れたと勘違いする人もいた)、ゆったりと1分間に33と1/3回転が丸見えのLPは、感情移入がしやすい。
レコード針を落とすのもマニュアル(オートのプレーヤもかつてはあった)なので、人の手が加わる、つまり再生に人間も主体的に関わっているという感覚が受けているのかも知れない。
音の方は…アナログはお金と工夫で音が簡単に変わってしまう。再生する側の能力や感性が問われる。それだけ自由度や趣味性が高いと言える。平たく言えば、面倒だけど、そこが楽しいのだ。
一般の店舗で販売している4けたプライスのプレーヤは、たしかによく出来てはいるが、本式にアナログの音を引き出そうとするには力不足。USB端子のついた安価なプレーヤで、レコードをデジタル化するものもあるが、アナログ盤の本当の音をデジタル化するところまでの性能は、どう考えてもなさそうだ。
復権が単なるブームにならないようにするには、きちんとしたアナログの本領を発揮させてやる必要がある。そのための草の根的な再生方法の共有化が大切となるだろう。
真空管アンプも復権して久しいが、これとて日本のオーディオ技術誌が質・量とも世界にも類を見ないほどの優れた真空管アンプの製作記事を通じて、回路のブラッシュアップを地道に続け、自作マニアを大切にし、パーツメーカーもそれに応えていたからこそだ。
すごいアナログの音を聞かせてくれる場所。本当にアナログを復権させて、新しい商機と文化を生み出したいのなら、まずそういう場所が欲しい。頂点を知らせないと、人々はあこがれを持てないのだから。
久々に出かけた町中の某フランチャイズCDショップの一角に、なんとも懐かしいLPレコードのコーナーができていた。簡易なカートリッジもその脇で販売されていて、若者が何人か集まっていた。
箱の中に取り込まれて、どう動いているかが物理的にわからないCDよりも(かつてはミラーで回転状態が見える機種もあったが、その回転の速さを見て、CDプレーヤが壊れたと勘違いする人もいた)、ゆったりと1分間に33と1/3回転が丸見えのLPは、感情移入がしやすい。
レコード針を落とすのもマニュアル(オートのプレーヤもかつてはあった)なので、人の手が加わる、つまり再生に人間も主体的に関わっているという感覚が受けているのかも知れない。
音の方は…アナログはお金と工夫で音が簡単に変わってしまう。再生する側の能力や感性が問われる。それだけ自由度や趣味性が高いと言える。平たく言えば、面倒だけど、そこが楽しいのだ。
一般の店舗で販売している4けたプライスのプレーヤは、たしかによく出来てはいるが、本式にアナログの音を引き出そうとするには力不足。USB端子のついた安価なプレーヤで、レコードをデジタル化するものもあるが、アナログ盤の本当の音をデジタル化するところまでの性能は、どう考えてもなさそうだ。
復権が単なるブームにならないようにするには、きちんとしたアナログの本領を発揮させてやる必要がある。そのための草の根的な再生方法の共有化が大切となるだろう。
真空管アンプも復権して久しいが、これとて日本のオーディオ技術誌が質・量とも世界にも類を見ないほどの優れた真空管アンプの製作記事を通じて、回路のブラッシュアップを地道に続け、自作マニアを大切にし、パーツメーカーもそれに応えていたからこそだ。
すごいアナログの音を聞かせてくれる場所。本当にアナログを復権させて、新しい商機と文化を生み出したいのなら、まずそういう場所が欲しい。頂点を知らせないと、人々はあこがれを持てないのだから。
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