学ばせないこと2015年04月05日 07:13

 学ぶことは、変わることだ。

 情報を新しく手に入れ、それを処理し、再利用できるようにすることが学ぶことと言っていいだろう。このプロセスで学習者が学ぶ前と後で変化しなかったなら、学ぶことに意味はない。

 当然、学んだ後には、それまで自分が存在した環境や社会との軋轢を感じることになる。そして、それを「より良い」方向へ変えようとするだろう。

 もちろん「より良い」という価値判断は、学んだ後の立場で行われる。そして、社会のすべての構成員がみな平等に、同時に、同じ価値観を持つように学ぶということは困難だ。学ぶ内容も日々アップデートされ、知の賞味期限が短くなればなるほど、特に世代間の価値観のギャップは広がる一方となるし、学ぶ機会や能力差、意欲差もまたギャップを生む。

 「子どもに学問をさせると、親の言うことを聞かなくなるから、あまり学問をさせるものではない。」という言葉をかつてよく耳にした。今でも地方部の保守的な層ではこの言葉は現役だ。すでに親の世代のパラダイムは現代の知の世界から取り残されているのだが、コミュニティが閉鎖的であればあるほど、また、新たなパラダイムが大きな変革を求めれば求めるほど、このような反動思想は強まる。

 このような反動思想は、「学ばせないこと」を、様々な手法で人々に強要する。ケニアの大学での銃乱射事件の背景にも、そういう背景はあるのではないだろうか。

 もちろん、そのようなきな臭い話だけではなく、身近なところにも「学ばせないこと」はずいぶん流布している。学歴は高くなっても、内容がそれに伴わない大学生。便利な機能を搭載しながら、逆に基本的な仕組みは見えなくなり、実質的にきちんとした機器の知識を習得する機会を奪っているOS。

 消費者に対する気配りと、労働者の背景に家族と生活があるという基本を忘れ、短期の収益にのみ血道を上げた結果、スキャンダルを引き起こしたり、消費者から見捨てられてしまう企業の経営者などは、「学び」の歪みによって、本質的なことを「学ばせない」圧力のもとにいると考えられるのではないか。

 逆に、消費者が学んだ結果、経営側に負担が増えるケースもたくさんある。食品の成分表示などはその典型だ。学べば、変わる。変わらざるを得ない。それを許さないのは、厳しく言えば学ぶことへの怠慢であり、「不寛容」そのものである。その裏には「昔は良かった」という、安易なノスタルジーがへばりついている。ノスタルジーの暴走は、まさに「反動」そのものだ。

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