3DCGムービーをつくる2015年08月02日 21:26

 数年ぶりに3DCGを作成することになった。もちろんすべてフリーウェアを利用する。ひとまず作成の概略を。

 まず、POV-Ray。C言語的なシーンファイルをテキストで作成し、静止画を作成させる。Windows版ならインストールするとエディタが立ち上がる。Unix版なら任意のエディタでシーンファイルを作成し、ターミナルからコマンドで実行。大分大学工学部が(一つ古いヴァージョンだが問題なく十分使える)日本語化マニュアルをwebで公開しているので、参考になる。
 まず静止画を完成させ、その後何をどう動かすかを考えて、物体の移動をシーンファイル内にclock変数を使って記載し、コマンドで必要なコマ数出力させると、アニメーション用のコマができる。この時、1秒25〜30コマとして作成すると、アニメーションの時間が設定できる。

 出来上がったコマをアニメーション化する。GIFにするなら、GIMPを使って、すべてのアニメーションコマをレイヤーで呼び込み、アニメーションGIFとして出力すればオシマイ。かつてはanimation GIF makerなどのアプリを使っていたが、今はシンプルだ。

 Linux環境では、Stopmotionでmp4出力が便利。最初にSettingsからConfigure Stopmotionを選び、開いたPreferences MenuでVideo_Exportタブを選択。私の環境ではmencoderでないとうまくいかなかった。
 POV-Rayの現行バージョンでは、デフォルトの出力はPNGなので、PNGを読み取れるように、表示されているmencoderのmpeg4 videoを選択し、右側のEditをクリック、現れた画面の下の方、Start encoderの窓のコマンドラインで、 $opt -mf type=jpg:fps=12 を $opt -mf type=png:fps=30 として、取り込みファイル形式をPNG、1秒間のコマを30に(25コマならfps=25)、"mf://$IMAGEPATH/*.jpg"を"mf://$IMAGEPATH/*.png"に変更し、下のApplyをクリック。一気にAVIファイルにもできるはずだが、私の環境ではcodecがないと怒られた。もっともStopmotionでは音声トラックを追加する際、現時点ではoggファイルしか使えないらしいので、ひとまずこれで。終了したらCloseをクリック。すべてのコマを取り込んで、メニューのfileからExportでvideoを選ぶ。任意のフォルダを指定し、”ファイル名.mp4”とネーミングして、保存。これでmp4が完成。

 ogg以外の(例えばwav)音声トラックを追加したり、他の動画と編集したいときは、動画編集アプリケーションを使う。Linux環境ならKdenliveが使いやすそう。起動して、クリップの取り込みで動画や音声ファイルを取り込み、編集して、レンダリング。現れる画面で任意のファイル形式を選択し、適当なファイル名をつけて、"ファイルにレンダリング"をクリックすればよい。

 ちなみに今回作成したのは地球。

キシュ「灰、庭」、カルヴィーノ「見えない都市」読了2015年08月09日 14:49

 キシュ「灰、庭」、カルヴィーノ「見えない都市」を読了。

 「灰、庭」は第二次大戦直前から戦中にかけて、現セルビアで暮らしたユダヤ人家族の話。もっともユダヤ人として宗教的に定義されるのは父親の方で、母親や子どもはキリスト教の洗礼を受けている。
 才能豊かだが、自信過剰で自意識過剰な父が次第に精神のバランスをくずし、やがて反ユダヤの動きから逃げ延びるように何度も転居し、最後にゲットーに収容されて、アウシュビッツで消息を断つ。物語はその父親の息子を語り部として、息子が幼年時代、少年時代を改装する形で描かれる。
 当然幼年・少年期の主人公は、何が自分たちの身の上に起こっているか、理解していない。記録されるのは現象面のみだ。日常生活が少しずつ崩壊していく様が、逆にくっきりと浮かび上がっていく。そして崩壊した幼年期の思い出は、子どもの五感すべてをいっぱいに使って受け取ったものばかり。生々しい記憶が壊れていく様子は淡々として、迫るものがある。途中、時間軸も乱れ始め、次第に幻想色が強くなりながら、作品は閉じられる。現実に何が起きていたのかをあらかじめ知って読めば、さらに作品を読解する解像度が上がる。主人公の認識能力のフィルターを通して、異化され、幻想化した世界に身を置くこともできる。

 「見えない都市」は、マルコ・ポーロがフビライの命で、元のさまざまな年の様子を報告するという意匠で描かれているが、ここに登場する都市は、どう考えても14世紀のものではない。表現の端々に見え隠れする、明らかに20世紀の文物や単語がそれを物語る。そして登場する都市の実に儚いたたずまい。
 例えば、ゴミを生み出すことがステータスである都市。次第にゴミもグレードが上がり、容易に分解されにくくなる。もちろん、ゴミになる前は生産物であり、立派な道具である。やがて町の周囲を取り囲むゴミの山が崩壊して、この町は滅ぶだろうと予言される。これはどう考えても現代の都市の問題そのものだ。
 これは単に一例に過ぎない。そして、これらの都市は元という大帝国がもはや止めようのない崩壊の過程を突き進んでいることの証左となっていく。フビライも、マルコ・ポーロも、互いにそのことを受け入れながら、夢幻の世界で二人の会話が続いていく。
 「見えない都市」は、数十年前はSF小説の括りで紹介されることも多かった。SFが「科学技術の進歩と発展を仮定し、それを人間社会に外挿することで、浮かび上がる未知の世界を描くもの」というジャンルであるとすれば、たしかに「見えない都市」は当てはまる。
 「見えない都市」というタイトルもまた、現実とその認識に絡んだ内容を暗示している。これを突き詰めた作家のひとりがフィリップ・K・ディックである。日本の私小説は自分自身の暗部をただひたすら見つめ続け、社会への視線が薄いように思える。これは結局サブカルの「ヤオイ系」「日常系」「セカイ系」と親和性の高い傾向のように思える。だが、ヨーロッパやアメリカの文学は自己と社会との接点を突き詰めていこうとする。自己の認識が社会認識の変容に繋がるという視点からすれば、SFと欧米文学との親和性の高さも納得できる。

 そう言えば、昨今芥川賞受賞で有名になった又吉直樹氏は、芸人という社会的立場もあって、さまざまな書評や読書案内にも携わっているが、彼が推薦した作品の中に、ケン・リュウ「紙の動物園」があった。現代アメリカSFの最先端作品の一つである。

「いつか晴れた日に」鑑賞2015年08月12日 18:21

 1995年アメリカ・イギリス合作映画「いつか晴れた日に」を鑑賞。
原作は「高慢と偏見」が有名なジェーン・オースティンの「知性と感性」(SENSE AND SENSIBILITY)。

 「高慢と偏見」はマッシュアップ小説としてヒットした「高慢と偏見とゾンビ」の元ネタだが、ある意味ツンデレものの元祖とも言えるおかしみがある。映画「いつか晴れた日に」も、「高慢と偏見」とほぼ同一の世界観、急転直下の大団円、主人公のうちの一人のツンデレ具合と、共通ポイントがいくつもかいま見られて面白い。原作を読めばさらに共通点はあるのかもしれない。

 さしたる事件も発生せず、娘2人の結婚話に終始するが、だからといって退屈になることもない。これも原作同様だ。

 物語の前半はイングランド田園地帯のやや陰鬱な自然と嵐と雨。それが、ラスト近くになると、作品世界を暗示するように晴れ渡った美しい風景に変わる。鮮やかな映像が印象的だ。

 「タイタニック」で有名になったケイト・ウィンスレットが出演している。コスチューム女優と呼ばれていた彼女だが、たしかにこの作品を観ればそのとおりだと思う。

「精霊たちの家」読了2015年08月19日 18:22

 イザベル・アジェンデ著「精霊たちの家」を読了。

 南米チリの軍事クーデターまでの約100年にわたる、ある家族の年代記の形をとる小説。冒頭部分はたっぷりマジック・リアリズムの世界である。

 早世した緑の髪の美少女と、超能力を持ったその妹、そしてその夫となるべき、激しい癇癪持ちだが愛情深い男。二人の間に生まれた娘と、小作人の息子との波乱に満ちた生涯、そして孫娘の時代は戦後、やがてチリの軍事クーデターへと時代は流れていく。

 超能力は娘には伝わらず、美貌だけが受け継がれ、孫娘には超能力も美貌も受け継がれなかった。そして、それに反して時代はどんどん現代へと移っていく。

 ほぼ前編を通じて存在する背骨のような癇癪持ちの男の一代記として読むこともできるが、やはり女三代の年代記の色彩のほうが濃い。だが、日本の作品のようにドロドロしたものではなく、どこか現実離れしたところが心地よい。

 チリという国(というより、南米の文化)に不案内な我々にとっては、少々面食らうマジック・リアリズムだが、慣れてしまえば容易に受け入れられる。

 そして物語は円環を描き、冒頭と末尾の文章が見事に重ね合わされる。ハリウッドが映画化したのも納得できるが、この作品を映画化するには、どう考えても普通の映画の尺数では収まりきれなかったはずだ。

 大部の長編だが、読まずに済ますのは絶対にもったいない。

「恋のページェント」鑑賞2015年08月21日 18:03

 1934年のアメリカ映画「恋のページェント」を鑑賞。

 エカチェリーナ2世が女帝となるまでの半生を描いた作品だが、歴史劇というより、やはり主演女優、マレーネ・ディートリッヒを見るための映画というべきだろう。

 少女時代から嫁ぐあたりまでは、正直かなり苦しい。若作りというより、無理して可愛らしく見せようと努力している(今や死語だが、まさに「ぶりっ子」)のだが、いかんせん、ディートリッヒ自身がそんな小娘ではない。「間諜X27」の時もノーメイクで田舎娘を演じて、みごとな化けっぷりだったが、今回は残念ながらうまく行っているとは言えない。ディートリッヒといえば百万ドルの脚線美だが、これが着替えシーンで披露されるのはお約束といったところか。

 しかし、結婚して愛人をもつようになってからは本領発揮。ふてぶてしく、タフで、凛々しいディートリッヒはさすがである。レース越しに見せる美貌など、まさに名シーンだろう。

 そして何よりもインパクトがあるのが、ロシア宮廷の造形。おどろおどろしいまでの造形と狭苦しい圧迫感には驚愕ものだ。

 当時のアメリカや、監督のスタインバーグのイメージだと、フランス革命前夜のロシアというのは、ああいうイメージだったのだろうと思うと、時代の差を感じる。

 ストーリーは…まあ、あまりとやかくいうのは野暮。ここはディートリッヒと1930年代のアメリカ人の帝政ロシア宮廷のイメージを楽しむのが王道。