キシュ「灰、庭」、カルヴィーノ「見えない都市」読了2015年08月09日 14:49

 キシュ「灰、庭」、カルヴィーノ「見えない都市」を読了。

 「灰、庭」は第二次大戦直前から戦中にかけて、現セルビアで暮らしたユダヤ人家族の話。もっともユダヤ人として宗教的に定義されるのは父親の方で、母親や子どもはキリスト教の洗礼を受けている。
 才能豊かだが、自信過剰で自意識過剰な父が次第に精神のバランスをくずし、やがて反ユダヤの動きから逃げ延びるように何度も転居し、最後にゲットーに収容されて、アウシュビッツで消息を断つ。物語はその父親の息子を語り部として、息子が幼年時代、少年時代を改装する形で描かれる。
 当然幼年・少年期の主人公は、何が自分たちの身の上に起こっているか、理解していない。記録されるのは現象面のみだ。日常生活が少しずつ崩壊していく様が、逆にくっきりと浮かび上がっていく。そして崩壊した幼年期の思い出は、子どもの五感すべてをいっぱいに使って受け取ったものばかり。生々しい記憶が壊れていく様子は淡々として、迫るものがある。途中、時間軸も乱れ始め、次第に幻想色が強くなりながら、作品は閉じられる。現実に何が起きていたのかをあらかじめ知って読めば、さらに作品を読解する解像度が上がる。主人公の認識能力のフィルターを通して、異化され、幻想化した世界に身を置くこともできる。

 「見えない都市」は、マルコ・ポーロがフビライの命で、元のさまざまな年の様子を報告するという意匠で描かれているが、ここに登場する都市は、どう考えても14世紀のものではない。表現の端々に見え隠れする、明らかに20世紀の文物や単語がそれを物語る。そして登場する都市の実に儚いたたずまい。
 例えば、ゴミを生み出すことがステータスである都市。次第にゴミもグレードが上がり、容易に分解されにくくなる。もちろん、ゴミになる前は生産物であり、立派な道具である。やがて町の周囲を取り囲むゴミの山が崩壊して、この町は滅ぶだろうと予言される。これはどう考えても現代の都市の問題そのものだ。
 これは単に一例に過ぎない。そして、これらの都市は元という大帝国がもはや止めようのない崩壊の過程を突き進んでいることの証左となっていく。フビライも、マルコ・ポーロも、互いにそのことを受け入れながら、夢幻の世界で二人の会話が続いていく。
 「見えない都市」は、数十年前はSF小説の括りで紹介されることも多かった。SFが「科学技術の進歩と発展を仮定し、それを人間社会に外挿することで、浮かび上がる未知の世界を描くもの」というジャンルであるとすれば、たしかに「見えない都市」は当てはまる。
 「見えない都市」というタイトルもまた、現実とその認識に絡んだ内容を暗示している。これを突き詰めた作家のひとりがフィリップ・K・ディックである。日本の私小説は自分自身の暗部をただひたすら見つめ続け、社会への視線が薄いように思える。これは結局サブカルの「ヤオイ系」「日常系」「セカイ系」と親和性の高い傾向のように思える。だが、ヨーロッパやアメリカの文学は自己と社会との接点を突き詰めていこうとする。自己の認識が社会認識の変容に繋がるという視点からすれば、SFと欧米文学との親和性の高さも納得できる。

 そう言えば、昨今芥川賞受賞で有名になった又吉直樹氏は、芸人という社会的立場もあって、さまざまな書評や読書案内にも携わっているが、彼が推薦した作品の中に、ケン・リュウ「紙の動物園」があった。現代アメリカSFの最先端作品の一つである。

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