「GODZILLA ゴジラ」鑑賞2015年09月27日 08:14

 「GODZILLA ゴジラ」を鑑賞。
 昨年、なんだかんだで完全に見逃していたので、やっと観たといったところ。

 福島の原発事故とその後をイメージさせるような前半、「クローバーフィールド/HAKAISHA」を彷彿とするMUTO、海上にのぞくゴジラの背ビレは「ジョーズ」か、それとも前回のアメリカ版Godzillaのイメージか。

 ストーリーは家族の崩壊と再生を軸に動く。本家東宝でも「ゴジラVSモスラ」や「ゴジラ✕メカゴジラ」あたりで匂わせていたストーリーで、ある意味盤石な設定とも言える。

 ゴジラの立ち位置はかなり変化。「核の脅威」の具現というより、むしろ平成ガメラの立ち位置に非常に近い。途中数回「寝る」ところもだ。単なるゴジラへのリスペクトというより、日本の、特に平成以降の怪獣映画の流れに合わせているのではないかと思える。化石化した骨格とMUTOの卵のシーンなど、「ガメラ3/邪神覚醒」のイメージも感じる。

 人間側のキャラクターを活かしきれていないところは残念。渡辺謙の芹沢博士は、狂言回し的で深みが不足。提督との絡みももう少しあると深みがましただろうが、そこまでやると3時間超の大作となるかも。

 日本で、特撮物のこの国での宿命の通り、子供だましに堕して崩壊したゴジラを再び引っ張りだした(もっとも庵野氏の存在を考え、彼のエヴァ後の実写作品の実績を考えると、少々気が重いが)功績は大と言えるし、アメリカ版前作に比べれば(しっかりリスペクトはしていたが)、はるかにゴジラらしい作品ではある。しかし、やはり本家ゴジラではなく、アメリカナイズされた「Godzilla」には違いない。それは明らかに「核」「放射能汚染」という悲劇に生々しく直面した日本という国の文化底流とアメリカの文化底流の温度差に起因しているように感じる。

 その意味でやはりゴジラは「核」の脅威を引きずり続ける存在なのだろう。そして我々は子供だましに堕したゴジラに失望の嘆息を漏らしながら、あの憎悪と恐怖に満ちたゴジラを希求する。民衆に迎合せず、民衆の怒りと悲しみを背負い、民衆に大きな犠牲を強いながら、民衆を食い物にする存在を破壊し尽くすゴジラを。

 日本版新ゴジラに破壊して欲しいと民衆が願うものはいくつもある。それに制作側が果たして気づいているのかどうか。民衆の審判はその点にかかっている。初代ゴジラは国会議事堂を破壊した時、観客から喝采を浴びたのだ。そして、その代償の焼け野原は広島の惨状を強くイメージさせ、その結果ゴジラは葬り去らねばならない存在となり、核開発と軍拡競争という現実が、第二、第三のゴジラを産んだ。新ゴジラは現実とどこまでがっぷり四つに組めるのだろう。