石ノ森作品の通奏低音〜島村ジョーの自称変化についての一考察〜2015年09月28日 23:54

サイボーグ009において、島村ジョーの自称の変化については、ほとんどの論考がそれを無視しているように思える。
 島村ジョーの登場は久里浜少年鑑別所の脱走シーンである。これ以前に島村ジョーは登場していないし、この作品が初めて世に出たのは、現在の単行本で冒頭に置かれている001から008までの拉致・改造シーンではなく、この脱走シーンであることはよく知られている。それは絵柄の違いからも歴然としている。
 最初に登場した島村ジョーの自称は「おれ」である。これは改造手術のための麻酔を受ける直前まで使われている。
 ところが、改造手術が終わり、島村ジョーがサイボーグ009として生まれ変わった瞬間から、彼の自称は「ぼく」(または肩下華のボク)に変わる。001に覚醒させられ、巨大ロボットに襲われた直後、天井に張り付いて攻撃を逃れた瞬間から自称が変化する。これはおそらく連載第2回であるから、単に自称が連載の変わり目で変わったと考えることも不可能ではないが、発表しが『週刊少年キング』という週刊誌であることからして、連載原稿作成の感覚がかなり短いことを考えると、やはり意図的な変更であると見るのが妥当だろう。
 少年まんがとして「おれ」という自称が教育的に問題があるという判断で変更された可能性もなしとはしないし、当時の少年まんがの主人公の自称をチェックして、そのような配慮があったのかどうかを確認することは現時点ではできていない。しかし後の少年まんがの男性主人公の自称として「おれ」はさほど珍しくないことから考えて、そのような配慮から「ぼく」へと自称が変化したとは考えにくい。ここは島村ジョーが改造手術を受けた結果、キャラクター造形上の人格が変化したと考えるべきだろう。もちろん生身のころの自称から考えて、紳士的ないしは高次の精神活動が開始されていると判断できる。
 そして、彼の自称は後のシリーズ、「アステカ篇」において、テラクトラマカスキの影響下に置かれ、精神的退行という状況下で感情暴走をした時でさえ変化することがない。
 以上のことから考えて、島村ジョーは改造手術を受けることで、人格的にも大きな成長をし、それは終生持続したと考えられる。冒頭部分に暗示された、仲間を気遣う優しさ、そして麻酔直前に強く抗う姿に象徴される自由への渇望は、改造後の島村ジョーにとってより全面に押し出されることとなる。もちろんそのバックに、改造されたことで得た力と、仲間の存在によって保たれる孤独からの開放、そして母性としてのフランソワーズの存在があることは言うまでもない。
 ここで、改造手術を一種のメタファーとして展開してみると、石ノ森作品に通底する要素が見いだせる。サイボーグとなることで、人間から排除される結果となった島村ジョーは、さまざまなエピソードの中で人間との断絶と直面することになる。最も初期のエピソードとしては「オーロラ作戦」(秋田書店版では「新ナチス」)がある。このストーリーのラストで、妻を新兵器に酔って失った男とその娘が再開する際、親子は「機械」を憎んでいたと語り、「半機械人間」であるジョーたちとの断絶は決定的なものとなる。この場合「機械」は殺戮をもたらす絶対悪のメタファーであり、それを「黒い幽霊団」によって体に移植されたサイボーグであるジョーは「絶対悪」によって汚された、忌むべき存在として指弾されてしまう。しかし、「機械」=「悪」というあまりに単純な善悪二元論は、「機械」=「悪」を体内に埋め込まれながら、その「悪」と決別し、敵対しようとするジョーたちにとって、あまりに皮相的認識ではないか。ここにサイボーグとして覚醒した島村ジョーと、生身の人間との大きな断絶の実相があると考えられる。改造されたジョーにとって、生身の頃に囚われていた皮相な二元論的世界観は相対化されてしまっていると考えてもおかしくはないだろう。
 この構図は作品が進行するに従って強化されていく。「ローレライの歌」のラストにおいてジョーが語った言葉が象徴的だ。「ぼくは……はんぶん機械かもしれない!」「でも……だからこそふつうの人間よりは正しい答えをだせるのだと信じている!」しかしこの言葉は復讐に狂ったローレライ母娘には通じることはなかった。また、ジョー自身もその優等生的でイノセンスな思考がローレライ母娘には通じなかったことに、強い無力感を感じている。ジョーの言葉は、心までも人ならぬものとなってしまった自分の、虚しい正当化のようにも響く。生身の人間の妄執や憎悪には、ジョーの理性は通用しない。そしてそれこそが「黒い幽霊団」の本質であるとすれば、彼らの戦いは永遠に続かざるを得ない。その「黒い幽霊団」は、人類を武力の独占によって経済的、軍事的に支配しようとしている。恐怖支配による自由の弾圧は、石ノ森作品の「悪」の本質と言える。
 この構図は後に「人造人間キカイダー」によって変奏される。この作品のラスト、ジローは不完全な良心回路「ジェミニィ」にプラスして、服従回路「イエッサー」を取り付けられ、それによって「人間と同じ」になったと語る。この時ジローはそれまでの「ぼく」という自称を「おれ」と変える。ここは明らかにジローの人格変化を表現している部分だ。「人造人間キカイダー The Animation」とその続編「キカイダー01 The Animation」では、この自称変化が表現されていなかった。あれほど原作をみごとにアレンジした作品の、これは痛恨の失策だと思う。服従回路「イエッサー」を悪の表象としていることから、石ノ森の悪に対する概念の一端が伺える。自由意志と自己判断を放棄し、他者の権威や判断に身を委ね、自己の苦悩や判断を放棄するのが「服従」であり、それは個人の自由の放棄である。石ノ森の語る「悪」は決して単純な二元論ではなく、人間の自由を奪う存在である。この点を把握していないままで論者が石ノ森を論じるのは、あまりに浅薄だと言わざるを得ない。そして、「人間と同じ」になったジローが幸せになれないことは作品のラストが暗示している。永遠に自由を守るために戦い続ける、これこそが自由の代償である。「善」も「悪」も地獄道。この荒涼とした世界観が石ノ森作品の底辺に流れる通奏低音である。
 キカイダーはイナズマンという超人によって服従回路「イエッサー」を焼き切られるが、それは「人造人間キカイダー」という作品世界から逸脱した世界であり、その後ジローは姿をあらわすことがない。この時点でジローは「永遠の戦い」からリタイアしてしまった。それは「人類の自由のために闘う」はずだったTV版の仮面ライダーがいつの間にか「正義のために闘う」存在と化して、原作から逸脱していきつつ生き続ける(そして「生身の人間」のものとなった)こととの照応という点で興味深い(もっとも「仮面ライダーウィザード」の最終回で、この部分に対して痛烈な批判が行われているが)。
 石ノ森作品は冷戦時代の世界観に基づいていて、すでに時代的意味は失われているという論も少なからず目にするが、明らかにそれは皮相な見方に過ぎない。石ノ森は冷戦時代という「大きな物語」を、意識の有無にかかわらずメタファーとしてとらえ、その視点は人間存在そのものに向けられていたと考えられる。人間にとって闘争の意味はなにか、何が人間を闘争に向かわせるのか、何が人間を闘争から開放するのか、それが彼の終生のテーマであった。その意味で石ノ森は当初から「人間の物語」を希求し続けたのだろう。多くのまだまだ未熟でナイーブなマンガジャーナリズムやサブカルチャー論証のなかで、石ノ森作品は未消化のまま放置されていると思う。まさに「生身の人間」の視点でしか評されていない氏の作品を、そろそろ「異形の視点」で見直す時期が来てもいいのではないだろうか。