朝の読書大賞2015年10月12日 06:43

 「朝の読書大賞」なるものが存在しているそうだ。

 私自身は、朝の読書の本質は、やれ地域スポーツだの、進学塾だの、受験勉強だの、部活動だので、子どもたちを取り巻く社会や大人たちが子どもから奪ってしまった読書の時間を、子どもたちに「懺悔を込めて」わずか10分なりとも保証する取り組みではないかと思っている。それはその場にいる、同じように読書の時間を奪われてきた、そして今現在も多忙で知られている教員自身の、読書時間の回復ともつながる。指導者がそれぐらいの厳しさで望まない限り、朝の読書は成功しない。

 読書習慣が定着することは、将来的な読書の幅を保証することによってしか成し得ない。単に「朝の読書」を義務的にやっていて、たまたまなにか都合のいいことが起きたからと言って、読書習慣がつくなどとは、あまりにナイーブな思考だろう。まして、「朝の読書」をしたら、教育効果が上がるだの、生徒指導が楽になるだのといった話は、「読書」の本質から遠く離れた、いわば「おまけ」にしか過ぎない。もしそちらのほうが大事というのなら、そういう御仁にとって、「朝の読書」は「食玩」の「ラムネ菓子」程度の意味にしかならない。読書は心の豊かさ、ゆとりという名の無駄を必要とするものであって、損得やご褒美、効用などといった算盤勘定ありきのしみったれた根性では決して定着するはずがない。

 巷の書店には「朝の読書」用の5分程度で読み切りの作品を集めた本があふれ始めている。それがきっかけで他の長い作品に誘導する風があるのかと思って手にとって見るが、どうもそのような雰囲気は感じられない。読書ハンドブックというスタンスより、むしろラノベのように、顧客を囲い込もうとする商魂の方が透けて見える。目の前の収益に血道を上げて、結局は業界の衰退と顧客の貧困化を産んでいくだけだ。ごく少数の「読書習慣がついた」子どもは生まれるだろうが、その陰に隠れた「やっと朝の読書から解放された」子どもという巨大分母は考慮の対象にすらされない。これは別に読書に限ったわけではない。スポーツで成果をあげた選手の陰で、大勢の負傷や障害を負った人間がいるわけだし、組み立て体操での成果に血道を上げた結果、多くの子どもが負傷や障害を負っていることは最近の報道でやっと明らかにされてきている。無責任な見物人は「最近のピラミッドは低くてつまらない」などと平気で言うのだろうが、その言説が多くの危険をはらんでいることなど、おそらくまったく考えたこともないだろう。

 懺悔に褒章はそぐわない。

暮らしの中にある日本の伝統色2015年10月14日 23:32

 和の色を愛でる会の著作で、「暮らしの中にある日本の伝統色」という文庫を購入。

 オールカラー上質紙のやや薄手の文庫本だが、価格は740円+税。昨今の文庫本の価格からすれば安いし、写真が美しい。

 こういう本はガリガリ読むのではなく、手元に置いて、何かの折にひもとく読み方のほうが楽しいだろう。建物や美術品の写真なら、文庫はサイズ的に物足りないが、色見本的な写真なら、かえって丁度いいぐらいのサイズだ。

 こういう本を見るときは、音楽もバロックのような、透明感のある曲がいいだろう。和ものの色だけに、あまり色彩豊かな濃い曲は合わない。

トゥルニエ「フライデーあるいは太平洋の冥界」/ル・クレジオ「黄金探索者」読了2015年10月18日 13:28

 ミシェル・トゥルニエ「フライデーあるいは太平洋の冥界」とJ.M.G.ル・クレジオ「黄金探索者」を読了。

 「フライデー〜」は、ロビンソン・クルーソーのリブートといった感じの作品。オリジナルのロビンソンは、無人島に西欧的・キリスト教的な秩序をもたらし、フライデーをその秩序の中に取り込んで漂流生活を送り、西欧世界に帰還していく、言ってしまえば近代化イデオロギーのメタファーそのものを体現しているが、「フライデー〜」は、タイトルにロビンソンではなくフライデーとあることから察せられるように(もっとも、このタイトルは邦題であり、原題は"Vendredi ou les limbes du Pacifique"、フライデーという固有名詞は現れていない)、最後に世界を支配するのはフライデー、つまり野生と自然の側である。
 自然を支配し、改変するという西欧(=近代)文明のスタンスがもろくも崩壊していくという構図は、20世紀に入って、第一次大戦後のヨーロッパで、そして第二次大戦後ではアメリカで、そして世界中で共有されたものだが、この作品にもこの構図は色濃く現れている。
 ラストはなんとも切なく感じてしまう。フライデーにも、ロビンソンにも、希望は見えてこない。

 「黄金探索者」もまた、資本主義や西欧文明と自然、野生とのせめぎ合いがほの見える。しかしこちらはさらに、夢やロマンといった非合理主義と合理主義との確執、そして第一次大戦がもたらした取り返しのつかない喪失感も濃厚だ。主人公は幼くして故郷の家を追われ、現実から追われ、手に入れた野生とロマンにも安住できず、地獄絵のような戦場でロマンを失い、そしてまた家族をも失っていく。何もかも失って、文字通り裸一貫になった時、主人公は初めて「自由」を感じるようになる。拠り所を失った漂泊者が、漂泊者としての自己を確立していく過程が、失ったものを丹念に書き込んでいく前半部で濃厚であればあるほどその価値を大きくしている。しかし、正直に言うと、この前半部分が私にはかなり重かった。むしろすべてを失い始めてからのほうがテンポよく読めた気がする。それは、長年積み重ねてきた歴史や暮らしが、たった一つの嵐で一瞬のうちに洗い流され、失われていくのとよく似たテンポ感だ。

 どちらも海と熱さと潮の香りを感じる作品だった。それは崩壊した20世紀ヨーロッパに対するアンチテーゼのようでもある。

図書館戦争 -THE LAST MISSION-鑑賞2015年10月19日 22:29

 「図書館戦争 -THE LAST MISSION-」を鑑賞。

 作中に登場する、町にあふれている「愚かなる大衆」のように、ぽかんと頭を空っぽにして見るのがベスト。そうであれば、言論の自由についての大切な知識と基本的な考え方が、検閲と規制に対する恐怖として頭の中に入ってくるに違いない。そうそう、それと、忘れてはいけない。負傷者多数だが、死者の有無は不明の、ど派手な銃撃戦。

 そういう見方ができないと、穴まみれのプロットや、ザルのような作戦行動、ご都合主義全開の戦闘結果に引っかかって、みごとに置いて行かれることになる。

 メディア側の危機感もあるのだろう(TBSが裏にいる)から、表現や報道の自由と検閲の問題をシリアスに伝えたいのだろう。ビジュアル的にもシリアスでハードに振ろうとしている。しかし、この作品の根本にある「ラブコメ」というフレームが、そのシリアス路線に頑強に抵抗している。要するにチグハグなのだ。

 劣化しきった石ノ森キャラの末裔であるシンケンジャーのシンケンレッドと仮面ライダーフォーゼが兄弟というのは、皮肉というか爆笑というか。

 ヒットはするだろう。その要素は十分ある。

「火星の人」読了2015年10月22日 23:18

 アンディ・ウィアー「火星の人」読了。昨今話題を集めている新作。

 直球ド真ん中、真っ向勝負のSF。妙なエイリアンも登場しなければ、超テクノロジーもない。ロボットも登場しなければ、ESPもない。火星に、不可抗力で取り残された宇宙飛行士が、その能力を絞り尽くして生き残り、それを知った人々が知力を尽くして救助に向かう。ほんの僅かなミスが再三のピンチを招き、そのたびに知力でピンチを乗り越えていく。作品の基調にあるのは「人間、捨てたもんじゃない」というスタンス。

 ガチガチのハードSFかと思えば、何と主人公は飄々とした脱力系キャラだ。何があってもめげることなく、ジョークとおちゃらけで困難を笑い飛ばしてみせる。マッチョなヒーローではなく、軽いノリで「ワオ!」だの「イェイ!」だの。やっとの思いで復活した地球との通信が、全世界に中継されていると知ったとたん、アスキー絵でちょっとエッチな画像を送ってしまうようなワルノリぶり。フィジカル面でも当然そうなのだろうが、メンタル面でのタフさが、ユーモアで活写されるから、重々しさは皆無。570ページが快調に読み進めてしまうページ・ターナーぶりは圧巻。

 読まずにスルーはもったいない。1200円+税以上のエンタテインメントは保証できる。

 リドリー・スコット監督作品としての映画化も間もなく公開されるらしい。期待大。