トゥルニエ「フライデーあるいは太平洋の冥界」/ル・クレジオ「黄金探索者」読了2015年10月18日 13:28

 ミシェル・トゥルニエ「フライデーあるいは太平洋の冥界」とJ.M.G.ル・クレジオ「黄金探索者」を読了。

 「フライデー〜」は、ロビンソン・クルーソーのリブートといった感じの作品。オリジナルのロビンソンは、無人島に西欧的・キリスト教的な秩序をもたらし、フライデーをその秩序の中に取り込んで漂流生活を送り、西欧世界に帰還していく、言ってしまえば近代化イデオロギーのメタファーそのものを体現しているが、「フライデー〜」は、タイトルにロビンソンではなくフライデーとあることから察せられるように(もっとも、このタイトルは邦題であり、原題は"Vendredi ou les limbes du Pacifique"、フライデーという固有名詞は現れていない)、最後に世界を支配するのはフライデー、つまり野生と自然の側である。
 自然を支配し、改変するという西欧(=近代)文明のスタンスがもろくも崩壊していくという構図は、20世紀に入って、第一次大戦後のヨーロッパで、そして第二次大戦後ではアメリカで、そして世界中で共有されたものだが、この作品にもこの構図は色濃く現れている。
 ラストはなんとも切なく感じてしまう。フライデーにも、ロビンソンにも、希望は見えてこない。

 「黄金探索者」もまた、資本主義や西欧文明と自然、野生とのせめぎ合いがほの見える。しかしこちらはさらに、夢やロマンといった非合理主義と合理主義との確執、そして第一次大戦がもたらした取り返しのつかない喪失感も濃厚だ。主人公は幼くして故郷の家を追われ、現実から追われ、手に入れた野生とロマンにも安住できず、地獄絵のような戦場でロマンを失い、そしてまた家族をも失っていく。何もかも失って、文字通り裸一貫になった時、主人公は初めて「自由」を感じるようになる。拠り所を失った漂泊者が、漂泊者としての自己を確立していく過程が、失ったものを丹念に書き込んでいく前半部で濃厚であればあるほどその価値を大きくしている。しかし、正直に言うと、この前半部分が私にはかなり重かった。むしろすべてを失い始めてからのほうがテンポよく読めた気がする。それは、長年積み重ねてきた歴史や暮らしが、たった一つの嵐で一瞬のうちに洗い流され、失われていくのとよく似たテンポ感だ。

 どちらも海と熱さと潮の香りを感じる作品だった。それは崩壊した20世紀ヨーロッパに対するアンチテーゼのようでもある。