マーラー 交響曲第4番を聴く2015年11月05日 23:52

 マーラーの交響曲第4番を聴く。

 ヴァーツラフ・ノイマンが1980年にチェコ・フィルと録音した、マーラーの交響曲全集からのピックアップ。ずいぶん前に購入してはいたが、久しぶりの鑑賞となった。

 まさに「天上の音楽」。冒頭の鈴の音は、私には雪の中をゆく橇馬車が鳴らす鈴の音のように聞こえる。一面雪景色の、星も月もない、ぼんやりとした灯りの中、彼方でかすかに聞こえる鈴をイメージしてしまう。ボヘミアというより、ロシア的なイメージではあるが。

 全曲ほとんど静かに進んでいく。ところどころに第4楽章の旋律が浮かび上がったり、第5番交響曲の断片が現れたりと、調和より混沌、秩序より飛躍が優先されるマーラーの特徴が、取り留めもないファンタジックな天上の夢幻世界を彷彿とさせて、実にいい。

 ノイマンのマーラーは健康的すぎて、整いすぎているという評をよく目にするが、私はノイマンの穏やかで優しいマーラーが好きだ。濃厚極まりないバーンスタインも、クールなインバル旧盤も、それぞれいいのだが、ノイマンのマーラーは刺激的とは言えないにしても、どことなく落ち着いていて、懐の深さを感じる。いわば京料理的なマーラーとでも言おうか。

宗教と信仰と2015年11月15日 21:48

 フランスで、犠牲となられた方々に、哀悼の意を表します。

 生き物は生まれて死ぬ。これは自然の摂理で、人間の好き勝手に同行できる筋合いのものではない。生殖医療や家族計画がいくら進んでも、完全な生命の発生は人工的に再現できないだろうし、どんない延命治療を施しても、死を逃れることはできない。この2つが完全に人為で制御できれば、全世界のパラダイムは大きく変化し、あらゆる価値観や常識は変革を余儀なくされる。しかしそれはもっと未来の話だ。

 人為では如何ともしがたく、かといって避けることもできず、これでは人は自然に抗いようがない。だまって受け入れれば良いが、人間はそれほど「おりこう」ではない。なにがしかの理屈をこねて、フィクションを生み出し、それを使って合理化を図り、自分の精神を安定化させようとする。そこに宗教という概念が発生する。

 当然、原初的宗教は、各人がそれぞれの自然との折り合いの中で生み出すものであって、それを信じることが信仰となったはずだ。しかし、自然という難物を合理化するためのフィクションをつくるのはなかなか大変な作業だ。だから誰かが作ったよくできたフィクションがあれば、それにあいのりするのは不自然ではない。こうして宗教は広がり、信仰もまた広がった。

 他人の作ったフィクションにあいのりし、それに自分の信仰を重ねあわせたのだから、自ずとフィクションと信仰のズレが現れる。同じフィクションを共有するもの同士でも、当然信仰のズレは起きる。すると、どちらの信仰のほうがより宗教という名のフィクションの本質を突いているかの争いが起きる。そこに各自の名誉欲、闘争心、権力欲と言ったものが忍び込む余地が生まれる。

 さらに、宗教というフィクションに依存することで精神の安定化を図っている以上、そのフィクションを疑う、または否定することは、精神の安定を破壊する行為ということになる。この恐怖と名誉欲、闘争心、権力欲とがミックスされると、際限ない欲望は自己防衛と表裏一体となって、強い排他性と攻撃性を生む。

 もともと他人のフィクションである宗教を基準に、自己保全と欲望充足を正当化すれば、その結果の責任所在も、他人が産んだフィクションに転嫁できる。権力と欲望の根拠も同様だ。なんでも人のせいにできるのならば、どんなわがままもフィクションの名のもとにやり放題となる。

 宗教を信じるのは個人の自由だし、信仰もまた同様。自分自身の精神の安定のためのものを、他者が否定する筋合いなどない。だが、それはあくまで個人レベルの話だ。他人に宗教を強要する筋合いなど誰にもない。また、安易に宗教を盲信するのも論外だ。宗教に対しては、各自が各自の責任と知力に応じ、適切に批判や判断を下すべきだし、他人の責任と知力によって生み出された解釈もまた、尊重しつつ冷静に批判や判断を加えるべきだ。宗教はオープンに語り合うものであって、他人に強要するものではなく、まして他人から強要されるべきものでは決してない。その意味では、宗教とは一種の政治権力と言っていいだろう。

 政治権力は国民に戦争という名の殺人を平然と命令する。だが、非常に困難な場合もあるとは言え、政治権力には批判や反対もできる。宗教にもそのようなシステムが必要なのではなかろうか。いや、現に宗教でもこのようなシステムは存在しており、パラダイムや時代の知の推移に応じて変革は休みなく行われている。しかし、安定を求める信仰者は、変革を望まず、保守的言動とそれに伴うさまざまな権益の保全に走り、変革に適応できないどころか、それに反旗を翻しすらする。これはあらゆる宗教で起きている大きな問題点だ。だが、宗教が恣意的欲望の根拠となることは、国家権力を恣意的欲望の根拠として利用するのが許されないのと同様、許されることではない。

 他人のフィクションにあいのりするのは楽だが、それは非常に危険極まりないことだ。その危険を回避するには、残念ながら神なき孤独な個の世界の深淵を覗きこまなければならない。これもまた避けることのできない摂理なのだろう。

 徒然草の最終段は、仏の本質を子ども時代の兼好に問い詰められた兼好の父が、とうとう答えに窮して、この世の最初の仏は天から降ったか地から湧いたか、わからないと返事し、友人との笑い話の種にしたという。神官職だった兼好の父と、出家僧であった兼好。宗教に携わる親子が、信仰の対象であった仏をこのように突き放して見、笑うことすらできたおおらかさこそ、今の我々が見習うべきことなのではなかろうか。

人は記号か?2015年11月22日 07:47

 茶器の良否を見抜く鑑定眼を磨くのは難しい。かなりの経験と学識、それに観察眼が必要だ。一朝一夕に身につくものではない。新興の茶の湯にとって、これは普及へ向けての大問題だった。

 そこで利休は、茶器の価値基準を、一般大衆にもわかりやすい記号で透明化することにする。値付である。良いものは高い。良くないものは安い。これなら一目瞭然、誰にでもわかる。

 しかし、何事もいいことばかりではありえない。次第に茶器そのものより、茶器の値段という記号のほうが一人歩きを始める。骨董詐欺など、典型的な例だろう。値段はわかりやすいが、物の価値そのものの判断ができないのでは、記号と物、つまり実体との乖離も起きる。だからこそお宝がらみの長寿番組も成立しているわけだ。

 某県の教育委員が特別支援学校を視察したあと、物議を醸す発言をしたという。障害のある子どもの出生を減らす方向へと意識改革をしなくてはという発言は、障害のある子どもの存在を否定することを含意していることからして論外だが、それよりもっと気になったのは、「大変な予算だろうと思う」という一言だ。

 予算がかかるから、特別支援学校のコストを削減したい。そのためにはコストの根源である障害のある子どもを減らせばよい。そのために早期診断と対処(何と言い訳をしようと、当然この文脈では誕生を阻止するなにがしかの医療行為以外の意味は発生し得ない)に取り組む意識改革が必要だという論法ではないかと思われる。

 経済の世界では、人間はカネという記号に換算されて久しいが、教育でもすでに子どもはコスト、つまりカネとして考えられ始めているということだ。

 茶器の価値がわからなくても、文化的に貧しくなるだけで、人は生きてはいける。だが、カネの価値がわからないと、少なくとも今の世の中は生きづらい。カネの価値がわかっても、人の価値がわからなくなって、就活だの派遣切りだのと、ずいぶん息苦しい世の中になってきた。教育の世界で、カネの価値がいくらわかっても、人の価値がわからなくなったら、人が記号に成り下がったら、国は、世界は、どうなるのだろうか。

ナボコフ「賜物」読了2015年11月24日 17:51

 ウラジーミル・ナボコフの「賜物」を読了。

 なんともペダンチックな作品。延々と繰り広げられるロシア詩の構造論や鑑賞は、翻訳という限界もあって、なんともついていくのに難儀した。また、文中にふんだんに投入される言葉遊びや本歌取り的パロディ・隠喩の類の多さにも幻惑。

 おまけに時間軸は前後し、主語までもいつの間にかすり替わっていくという、なんとも掴みどころがない文体。そして一章分はまるまる小説内小説である。うかうか読んでいると、作品に置いてきぼりにされてしまい、ぼんやり読んでいると、読むこちらも夢幻の境地へ…

 詳細な注のおかげで、理解は非常に助けられたが、逆に本文を読むことに関しては間断ない中断を余儀なくされてしまい、これまたハードな壁が読者の前に立ちはだかっている。

 しかし、ラストのなんとも肯定的な、そして滑稽なシーンには明るい笑みと希望がほの見える。読者の苦労は、主人公のこのラストに至る苦労とも重なる。難読だが、挑戦する価値は十分ある。