人は記号か?2015年11月22日 07:47

 茶器の良否を見抜く鑑定眼を磨くのは難しい。かなりの経験と学識、それに観察眼が必要だ。一朝一夕に身につくものではない。新興の茶の湯にとって、これは普及へ向けての大問題だった。

 そこで利休は、茶器の価値基準を、一般大衆にもわかりやすい記号で透明化することにする。値付である。良いものは高い。良くないものは安い。これなら一目瞭然、誰にでもわかる。

 しかし、何事もいいことばかりではありえない。次第に茶器そのものより、茶器の値段という記号のほうが一人歩きを始める。骨董詐欺など、典型的な例だろう。値段はわかりやすいが、物の価値そのものの判断ができないのでは、記号と物、つまり実体との乖離も起きる。だからこそお宝がらみの長寿番組も成立しているわけだ。

 某県の教育委員が特別支援学校を視察したあと、物議を醸す発言をしたという。障害のある子どもの出生を減らす方向へと意識改革をしなくてはという発言は、障害のある子どもの存在を否定することを含意していることからして論外だが、それよりもっと気になったのは、「大変な予算だろうと思う」という一言だ。

 予算がかかるから、特別支援学校のコストを削減したい。そのためにはコストの根源である障害のある子どもを減らせばよい。そのために早期診断と対処(何と言い訳をしようと、当然この文脈では誕生を阻止するなにがしかの医療行為以外の意味は発生し得ない)に取り組む意識改革が必要だという論法ではないかと思われる。

 経済の世界では、人間はカネという記号に換算されて久しいが、教育でもすでに子どもはコスト、つまりカネとして考えられ始めているということだ。

 茶器の価値がわからなくても、文化的に貧しくなるだけで、人は生きてはいける。だが、カネの価値がわからないと、少なくとも今の世の中は生きづらい。カネの価値がわかっても、人の価値がわからなくなって、就活だの派遣切りだのと、ずいぶん息苦しい世の中になってきた。教育の世界で、カネの価値がいくらわかっても、人の価値がわからなくなったら、人が記号に成り下がったら、国は、世界は、どうなるのだろうか。

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