AT-PEQ3改造32016年03月07日 22:16

 AT-PEQ3の改造、第3弾は、いよいよコンデンサの換装。

 まず、イコライザ素子と思われる小容量コンデンサ、C7とC10(1500pF)、C8とC11(5600pF)を、アムトランスのAMCHに換装。オリジナルより厚みはあるが、換装に問題なし。

 次に、ACアダプタ入力直後の1000μF25Vのケミコンを、ニチコンMUSEのFG、1000μF25Vに換装。こちらはサイズがオリジナルよりかなりでかいが、換装可能。

 視聴の結果は、前回のオペアンプ換装の効果が大きいので、劇的な変化というわけではないが、静粛性が高まったように感じた。それまであったざわつきのようなものが後退して、空気感が高まったように感じる。AMラジオに慣れた耳で、FMラジオを聴いた時の静けさを感じるような感覚だ。

 レコードのスクラッチノイズも軽減したような感じで、状態のあまりよくない、若干歪っぽく聞こえるレコードも聴きやすくなったような気がする。オリジナルの時に比べ、楽器の定位、解像度は圧倒的に変化し、低音のボンつきは後退、シャープで広がりのある、前に出る躍動的な音質に変化している。聴いていて楽しいし、ことによるとCDよりもいい感じではないかとも思ってしまう。

 次回は入出力カップリングのケミコンの換装、その他ケミコンのグレードアップ換装を予定。ただ、カップリング用のフィルムコンはサイズが大きいので、換装には苦労しそうだ…

AT-PEQ3改造42016年03月22日 21:56

 AT-PEQ3の改造も最終局面。電解コンデンサの総交換にとりかかった。
 まず、C1、C2の黄色いオーディオ用電解コンデンサらしきもの(0.47μF/50V)を、メタライズドポリプロピレンコンデンサ(0.47μF/250V)に交換。C5、C6の47μF/25Vは、同値のオーディオ用無極性電解コンデンサに交換。電源周りのC19、C21の10μF/50Vも同値のニチコンFGに交換。C22、C23の220μF/25Vもやはり同値のニチコンFGに交換した。
 問題はC13、C14の出力カップリングコンデンサ、4.7μF/50V。同値のフィルムコンデンサは巨大で、どう考えても換装してしまうと元のケースには収まりそうもない。値を下げれば収まりそうな積層フィルムコンデンサはあるが、それでは低域のカットオフ周波数があがってしまいそうだ。そこで、薄膜高分子積層コンデンサ、PMLCAPに目をつけた。チップ型コンデンサだが、長辺が約4mmで、ちょうどオリジナルのコンデンサの基板取り付け穴の間隔とほぼ同じ。基板のランドに盛りはんだをして、基板裏側に手半田で表面実装すれば良さそうだ。メーカーサイトでもオーディオ用と謳っているので、さっそく実装。

オリジナル
 これが改造前、オリジナルの状態。

改造後
これが改造後。オペアンプはICソケットで取り付けるようにしたので、換装も簡単。ケミコンは一回り大ぶりになり、黄色い入力カップリングコンデンサは薄型のフィルムコンに変更。C13、C14は裏面に実装したので、完全にブランク状態に見える。
改造後_裏面表面実装
 裏面。やや右側上端と真ん中やや右あたりにある、濃い緑色の四角い物体がPMLCAP。さほど難しくなく実装できた。

 改造後、ケースに収め(無極性電解コンデンサが少し干渉したが、ちょっと倒すと問題なく収まった)、自作電源をセットし、視聴。

 前回以上に静粛性が増したように感じる。パーカッションがグイグイ迫ってくる感じで、パワフルなイメージが強い。ストリングスは上品で、ややウエットだが、官能的で心地よい。ヴォーカルも少し艶が乗る感じで、生身の声の感触が伝わってくる。
 アナログレコードと同音源のCDとを比較試聴してみる。もちろん、アナログとCDではマスタリングが変わっているだろうから、単純比較は厳密には意味をなさないのだろうが、アナログはパーカッションがCDよりやや甘めになり、むしろアタック後の空気振動まで伝わってくるようなリアル感を感じる。CDのほうがパルシブでハード、コンパクトな鳴り具合だが、少々記号的な感じもする。ストリングスはクールで煌き感のあるCDに対し、実にセクシーで艶っぽい、それでいて品を失わないアナログ。CDのほうが全体的にハードでクール、アナログのほうが生身を感じる。これは優劣の問題ではなく、好みの問題だ。どちらか一つでなければならないなんて、しみったれたことをいうのは野暮。両方楽しみたい。
 少なくとも、わずかこの程度の改造で、市販の「レコードからPCへコピーできます」と謳うプレーやシステムとは次元の違う音が聞こえてくる。それは基本設計の素晴らしさが反映された結果だろう。ケミコンやオペアンプもまだまだエージング途上。どのように音が落ち着いてくるか、しばらくお楽しみは続きそうだ。

 老婆心ながら、AT-PEQ3は、そのままで十分バランスのとれた、良心的な製品だ。これに勝手に手を入れるのは、ある意味メーカーに対して失礼な事とも言える。当然この改造は自己責任のもとにおこなったものであって、その結果がたまたま良好だっただけのこと。失敗しても誰にも文句をいう筋合いはない。まして改造時、改造後のトラブルでどのような損害を被っても、それは自業自得。このブログをお読みになって興味をお持ちになった方は、どうぞそのことを肝に銘じて欲しい。わたしは決してこの機材の改造をおすすめしているのではない。これはあくまで自己責任においておこなった実験の覚え書きである。

コンラッド『ロード・ジム』読了2016年03月26日 22:44

 コンラッドの『ロード・ジム』を読了。

 西洋文明、つまり近代文明は、その根本にキリスト教的倫理を持っている。そして倫理は往々にして、人の本能とは相反する。

 宗教者の息子として生まれ、自慢の息子として優秀な船員となったジム。しかし、彼は危機にあって、その理性、つまり倫理と反する本能的行動で生命の危機から脱出した。しかしそれは倫理の許すものではなかった。彼は近代文明の世界の一部である法秩序によって、船員という文明社会での地位を剥奪され、自分自身の倫理によって自分を責め続けることになる。

 そんな彼に語り手は手を差し伸べる。そしてジムは近代文明に属さない世界の混沌と騒乱を、近代文明の方法によって収め、信頼を集め、その地の実質的支配者として君臨した。かくして「ロード・ジム」は生まれる。

 しかし、前近代文明の混沌を収めたジムは、近代文明の暗部である欲望と支配欲、差別と暴力の権化のような自分の同朋によって窮地に追い込まれる。彼はその窮地に近代文明に則った行動で対処し、自分を滅ぼし、自分を愛した前近代文明からは無理解と怒りを剥けられるという悲劇に見舞われる。

 コンラッドは、近代文明の暗部と前近代文明の礼賛といった、単純な二元論には立たない。ジムは阿呆で、おめでたいボンボンで、誇り高く、勇敢で、直情径行で、優秀だ。彼の恋人はミステリアスで、頑固で、魅力的で、頑迷固陋だ。この話はむしろ、近代文明の野望とその挫折、前近代文明の脆弱さと頑強さのせめぎ合いを感じさせる。同じくコンラッドの『闇の奥』にも同じモチーフを感じる。

 一種の貴種流離譚の形式をもつこの作品には、ジム自身の視点がない。彼の描写はすべて第三者の視点でしか述べられない。ここにジム自身も意識していないさまざまな心理を想像する余地や、心の中の謎を暗示するキーもあるように思われる。

 100年前の作品ということが信じられなくなるような、そんな作品だ。