福祉と税収と仕事と2016年10月19日 21:54

 消費税引き上げが延期されてしばらく経つ。

 いま消費税が上がれば、消費の冷え込みは確実だ。景気が上向いたなどというのは単なる形而上の現象であって、実態経済においては、円高による生活必需品(主に食料)の高騰とそれに伴う生活コストの上昇率と頻度に、給与所得の上昇が全く追いついていなかったのだから、実体経済では景気は回復など全くしていなかったと言っていいだろう。

 だが、どう考えても、高齢化して老後の経済生活が不安になっている現代で、福祉のコストを支えるには税収をアップするしかない。経済的に豊かになった裏で、様々な生涯生活コストは跳ね上がり、やがて経済成長率が鈍ると、上昇し続けるコストに対して、収入は目減りする。豊かさの臨界点を超えて、貧困状態に転落していると言っていい。

 だから、豊かだったので依存率を低くしていた女性労働力まで駆りだすはめになった。サラリーマン世帯で総中流、専業主婦と家族を男一人で養える「豊かさ」はすでに崩壊し、それ以前の、農業中心の時代の一家総出労働が求められるほど「貧しく」なったといえる。

 だが、農業中心、家内制手工業や家族経営小規模工業、小規模小売業主体のかつての「貧しい」時代と、現代の「貧しい」時代には、大きなギャップがある。それは、「仕事」と「生活」が断絶してしまっているという点だ。

 以前の「貧しい」時代には、生活基盤と労働基盤は非常に近い位置にあった。仕事と生活はクロスオーバーし、相互扶助によって家庭生活と仕事は緊密につながっていた。平たく言えば、仕事場に子供がいても当たり前だったし、職場集団の大人全員が子供全員の面倒を見ていた。

 ところが、高度経済成長を強引にすすめるために、資本主義諸国、とりわけ日本は仕事に軍隊モードを投入した。男は職場という戦場に、家族を残して出撃し、家族は職場から遠く離れた場所で、男不在でも機能することを求められ、男は家族の存在を限りなく職場では無にすることを求められた。男ひとりの労働で家族が養える「豊かさ」は、仕事と家族を完全に分断し、「専業主婦」という銃後の守りのプロパーを生み出すことで成立した。

 「貧しい」社会は、かつては仕事と生活の緊密な連携によって、生活基盤を機能させていた。それが完全に崩壊した現代で、再び「貧しい」時代が到来している。仕事が生活を無視し続ける時代は、もう終わった。

 「そんな厳しいことを言うな」と、年長者の中には言うものもいる。なんと脳天気なことか。呆れ果てた楽観主義に溺れて焼け野原になったことなど、すでに戦後生まれのか、物心つく前に敗戦・戦後を送った年長者には、そんな簡単なことを学ぶ暇も能力もなかったというのだろうか。仕事という「戦争」に血道を上げて、「銃後」の生活を軽視し、疲弊し尽くした結果がこれだ。年長者の福祉が苦しくなったのは、ある意味論理的帰結、冷たく言えば自業自得だ。

 だが、年長者手前の世代や、若い世代に彼らの自業自得に付き合わねばならない義理はないし、そんなことをさせるべきではない。働くすべてのものが、生活や家庭があっての仕事ということを認識しなおさねばならない。仕事のために生活が崩壊し、誰も子供を産み育てようとしないし、できない、そんな社会が生み出されるのなら、仕事は社会悪以外の何物でもなくなってしまう。子供が増えなければ、増税の見込みはなくなる。このままでは、社会は高齢者の死を望む場所となってしまう。

 家族を大切になど、そんな甘いことを言っていては、社会で生き残れないという経営者諸君、そんな甘いことを言っているようでは、もう社会が存続できないのだ。甘いのは一体どちらなのか。