「ニルヤの島」読了2016年12月19日 22:26

 柴田勝家「ニルヤの島」読了

 人格移植コンピュータとなると、古くは70年代の「宇宙鉄人キョーダイン」あたりからが馴染みのある設定だ。「宇宙海賊キャプテンハーロック」に登場するアルカディア号にも、インターフェイスは不十分だが人格が移植されているし、その手のネタには事欠かないのがこの国のサブカルチャーだ。

 グレッグ・イーガンやジョン・C・ライトにもこのネタはあるが、いずれも人格をコンピュータに移植することがすでに確立した状態である。「ニルヤの島」では、この「人格移植」に相当するテクノロジーを考案しているところが興味深かった。

 「生体受像」と称されるテクノロジーで、生活のすべてがコンピュータ上に保存できるようになったため、人々は宗教や死後の世界を否定するようになったという設定で、ミクロネシアを舞台に、葬儀や死後の世界を考える最後の宗教との接点を持った人々と、やがてくる大変革。

 生体受像技術で、主観時間を何度も設定し、同じ記憶を繰り返すことで、死の瞬間を錯覚させ、永遠に続く日常の中で意識を存続させるというアイディアだが、私には「無間地獄」を思わせた。そんな中で現実の「死」に直面すると、人はやはり何かしら「けじめ」を付けたくなるだろう。そこに否定されたはずの「死後の世界」が再び浮かび上がってくる。

 断片化された主観時間、複数のキャラクターの物語が交錯する作品構造は、マジック・リアリズム的でもあり、古典的な日本文学以外に馴染みのない読者には抵抗が大きいだろう。置いてきぼりを食らって作品を逆恨みする読者もいるかもしれない。お楽しみの読書には少々荷が重いかもしれないが、刺激的な読書にはなる。どうせ読むなら刺激的な方が楽しいではないか。

 無間地獄から解き放たれる時、人はどこへ行くのか。水葬のイメージとともに物語は終焉を迎える。