プレミアムフライデー2016年12月12日 22:20

 日本人はプレミアムが好き、とは、嘉門達夫の歌の文句の一つだが、全くそのとおりだと思う。何でもかんでもプレミアム、最後は金曜日にまでプレミアムだという。

 なんでも、その日は15時ぐらいにみんな退社させるよう、政府が企業に働きかけるそうだ。浮いた時間は金を使ってもらいたいらしい。

 金を使うには、消費する場所が必要だ。そしてそこには当然、店員という「労働者」が必要だ。彼らはプレミアムフライデーの恩恵にはあずかりようがない。売上がアップしたからと言って、彼らの収入がそれにスライドするとは思えない。むしろ厳密にスライドすると、売上が落ちた時はおおごとだ。おまけに、失業率は低下しているというのも、非正規雇用を含んだ話であって、実際は正規雇用数は減少、非正規雇用が増えているのだそうだから、非正規雇用を大量に引きずり込んで、プレミアムの穴埋めにするのだろうか。

 まあ、それ以前の問題がある。プレミアムに無駄遣いできるぐらい、プレミアムな給料をよこせということだ。

「ニルヤの島」読了2016年12月19日 22:26

 柴田勝家「ニルヤの島」読了

 人格移植コンピュータとなると、古くは70年代の「宇宙鉄人キョーダイン」あたりからが馴染みのある設定だ。「宇宙海賊キャプテンハーロック」に登場するアルカディア号にも、インターフェイスは不十分だが人格が移植されているし、その手のネタには事欠かないのがこの国のサブカルチャーだ。

 グレッグ・イーガンやジョン・C・ライトにもこのネタはあるが、いずれも人格をコンピュータに移植することがすでに確立した状態である。「ニルヤの島」では、この「人格移植」に相当するテクノロジーを考案しているところが興味深かった。

 「生体受像」と称されるテクノロジーで、生活のすべてがコンピュータ上に保存できるようになったため、人々は宗教や死後の世界を否定するようになったという設定で、ミクロネシアを舞台に、葬儀や死後の世界を考える最後の宗教との接点を持った人々と、やがてくる大変革。

 生体受像技術で、主観時間を何度も設定し、同じ記憶を繰り返すことで、死の瞬間を錯覚させ、永遠に続く日常の中で意識を存続させるというアイディアだが、私には「無間地獄」を思わせた。そんな中で現実の「死」に直面すると、人はやはり何かしら「けじめ」を付けたくなるだろう。そこに否定されたはずの「死後の世界」が再び浮かび上がってくる。

 断片化された主観時間、複数のキャラクターの物語が交錯する作品構造は、マジック・リアリズム的でもあり、古典的な日本文学以外に馴染みのない読者には抵抗が大きいだろう。置いてきぼりを食らって作品を逆恨みする読者もいるかもしれない。お楽しみの読書には少々荷が重いかもしれないが、刺激的な読書にはなる。どうせ読むなら刺激的な方が楽しいではないか。

 無間地獄から解き放たれる時、人はどこへ行くのか。水葬のイメージとともに物語は終焉を迎える。

クリスマス前の惨劇2016年12月20日 22:52

 ドイツで、トルコで、クリスマス前のテロが起きた。

 クリスチャン以外にはクリスマスなど、何の関係もないし、存在すら意味をもたないのは当然だ。だが、だからといって自分が信奉する信仰以外の信仰を持っている相手の、信仰対象の日を狙うのは、あまりに思いやりがない。

 宗教が後ろ盾になると、他者のことなどお構いなしに踏みにじっても構わないという気持ちになるのだろうか。憎たらしい国の高官近くにいれば、職権を使って危害を加えても構わない、治安を守る仕事は宗教の前ではそれほど軽いというのだろうか。

 もっとも、そんな無粋な浅ましいことをしなくてはならないのが戦争だと言われればそれまでのこと。しかし、世界的に見ても宗教にはルーズな日本でも、この時期にテロ行為を行えば、人的被害の大きさは言うまでもないが、狙った時期に関しても、非難轟々だろう。

 宗教にルーズな国民のほうが、宗教に凝り固まった人間よりよほど他者の信仰に畏敬の念を持っているとすれば、一体宗教なるものはどれほど歪みを内包する危険を持っているというのだろうか。

 信仰は他者が決して犯してはならない個人の内面だが、宗教は政治活動に過ぎない。信仰は畏敬の念を持って尊重しなくてはならないが、宗教は常に批判的視点で冷静に観察しなくてはならない。政治は盲信してはならないのだから。

冬至2016年12月21日 22:49

 冬至だ。

 夕食には定番のかぼちゃを。昭和の頃はわびしいイメージや、ブサイクなイメージ(どてかぼちゃなんて言葉もあった)が、いつのころやら「パンプキン」と外来語表記されて、すっかり株が上がった感がある。

 実際、甘くて旨いのだから、名誉回復はかぼちゃにとっても、かぼちゃを食べる我々にとっても嬉しいことには違いない。

 冬本番はこれから。元気に乗り切っていきたいものだ。

除夜の鐘は騒音?2016年12月22日 23:13

 除夜の鐘の音が近所迷惑なので、自粛するお寺が現れたという。

 周囲への気配りが細やかなのか、周囲があまりに深夜の音に敏感なのか。いずれにせよ、除夜の鐘の存在意義そのものが薄れてしまったことの現れなのだろう。

 今、どのぐらいの年齢層までが、除夜の鐘の数が108であること、その数が人の煩悩の数であることを知っているのだろうか。それを知らない人のほうが多数派になれば、たしかに深夜の梵鐘108連打はただの騒音にほかならないだろう。もちろん本当に我慢がならない人もいるだろうから、一概に除夜の鐘のことを理解しているから、ガンガン叩いても構わないとも言えないのだが。