「虐殺器官」鑑賞2017年02月18日 07:15

 「虐殺器官」を鑑賞。昨年秋公開予定が、制作会社倒産のため、暗礁に乗り上げたといういわくつきの作品。まずは完成・公開されたことを喜ばねばならないだろう。

 原作は伊藤計劃の同名小説。SFであり、ポリティカルアクションであり、冒険小説でありと、多方面からの絶賛を受け、2000年代以降のSFやミステリ、冒険小説に大きな影響を与えた傑作。

 しかし、映画は原作にほぼ忠実かつ、大ネタである「虐殺器官」の解説についてもかなりわかりやすく解釈しているものの、伏線の不十分さ、例えば主人公の相棒の最後の行動の動機に繋がる伏線の薄さ、主人公の最終決断に繋がる伏線が原作にはあったが、この作品では完全にオミットされている点、ガジェットの説明放棄による行動理由の不明確さなど、原作を読んでいない、またはSF的近未来ガジェットについての知識が希薄な観客には「難解」と言わざるを得ない。

 制作も追い詰められ、原作の重さと期待に喘ぎつつ、必死になって作品世界を構築したといった、余裕のなさが感じられる。非常に健闘した作品であることは間違いないが、観客に求めるハードルもまた跳ね上がってしまった。

 また、一箇所原作と大きく場面設定を変更したため、かなり不自然と感じる部分もある。上空を飛ぶヘリコプターが撃墜され、そこから放り出された「通常装備」の兵士が、果たして無傷で地上に落下できるものだろうか。

 また、伊藤計劃の3長編を映画化するというフジテレビ・ノイタミナのフォーマットありきだったのだろうが、エンディングテーマは、作品世界のイメージとは著しく外れてしまった。視聴率凋落の一途をたどるフジテレビの悪い面が覗く。

 上映前の予告編も、ほとんど邦画ばかりになった。高校生同士の恋愛もどきのじゃれ合い、女子中高生の夢妄想+変身願望、カードゲーム系アニメ+マトリックス+アイドルといった、黴の生えたような作品群。「君の名は。」のように、丁寧な伏線とコテコテの王道メロドラマであっても「難しい」と言う一般の観客に、果たして「虐殺器官」が受け入れられるかどうか。マーケティングの課題は大きい。あの原作にしてすら、「難しくてわからない」と投げ出した、理数系専攻の高学歴の読者を数名、私は知っている。

 虐殺の文法を、一体誰がアメリカに、日本に、世界にばらまいてしまったのだろう。

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