長いものに巻かれる2017年09月01日 23:24

 長いものに巻かれるのは楽だ。

 自分で判断し、自分で失敗して痛い目にあうリスクがない。
 だが、自分で判断し、自分で成功を噛みしめる喜びもない。
 なぜなら、成功するのが当たり前だからだ。その保証を得るために「長いものに巻かれる」のだから。当たり前の現象に「喜び」も「感謝」も「感動」もありはしない。

 そのかわりにあるのは、感謝ではなく、長いものへの「盲信」であり、「服従」にすぎない。それはやがて「狂信」となり、「支配」へとすり替わっていく。政治思想も宗教も、本質的には同じ危険を持っている。人間を愛する神の名のもとに、他の人間を情け容赦なく殺戮するなど、世界中古今東西ありふれた矛盾だ。

 だからこそ、「批判」と「懐疑」が必要だ。そして「盲信」と「服従」には「抗議」と「抵抗」をもって当たらねばならない。もちろん、その結果を受け止める「覚悟」もなくてはならない。

 「批判」も「懐疑」も、一人ひとりが自分自身のものとして持つ必要がある。それこそが誰にも犯されることのない自分自身なのだから。そして、それが否定されるべきものであった場合、それを受け入れ、自分自身を変革する「覚悟」もまた必要だ。これはかなりきついことになる。

 そんな「きつい」ことは嫌だから、みんな「長いものに巻かれる」のだろう。その「長いもの」が自分の首をグイグイ締めあげて、息の根を止めようとしても、朦朧とした意識の中で「しあわせ」に事切れることになる。

 自分にとって都合の良すぎることを「疑う」ことは、昔からの知恵だった。「うまい話に気をつけろ。」などと、耳にタコができるほど聞かされてきたのに、うまい話に「巻かれる」ことの多いこと。

 子供をダシに「1/2成人式」などと称して、親が感動する小学校のイベントがあるらしい。そのイベントを導入すれば、感動的なひとときが過ごせるという、実にありがたい「長いもの」だ。だが、親にとって子供に「感謝」されるのは嬉しいが、それが学校現場で教員の指導によって行われるなんてうまい話に、単純に感動できるのは、よほど「信心深い」良い子なのではないだろうか。世の中、そんなに「幸せ」な家庭ばかりだと、そんなうまい話があるのだろうか。

 夏休みにたくさんの「楽しい思い出」があるから、みんなで発表しましょうなどという授業も昔から定番の「長いもの」だが、こんな無神経極まりない授業があるだろうか。そんなにみんな「楽しい」家庭ばかりなら、マスコミの大半はおまんまの食い上げで、マスコミ関係者の家庭が「不幸」になるに違いない。

 「長いものに巻かれ」て、感動ポルノに無神経に浸りこんだ連中が待ち構える学校で、あまり人には知られたくない家庭生活を、弱者に無神経な教員によって暴露させられる苦しさを考えれば、9月1日に子供が不幸になる原因もおのずと察しがつこうと言うものだ。

 家庭はみんな幸せだなどという、根拠のない「盲信」に巻かれて、子どもたちや、その背後にいる親の首を締め上げているのではないかという「懐疑」を持つ能力を失うことが、子供の生きにくさを生んでいるかも知れない。

 そう言えば、「1/2成人式」の内容も、「楽しい夏休み」の思い出も、突き詰めて考えれば、子供自身の能力とはかなり外れたものに過ぎない。10年子供を育てたのは「親」だし、「楽しい夏休みの思い出」を子供に提供するのも「親」。子供に聞くのはお門違いだ。いっそ親だけが集まって「10年子育て記念懇談会」だの「夏休み楽しかったイベント交流会」だのをやったほうがよほど理にかなっている。感動と満足は自分で作って味わうほうが嬉しい。

 9月1日、新学期。子供が身一つで元気にニコニコしている。それ以上、何の感動が必要だろうか。これこそが全てに優先することではないのだろうか。それすら完全に満たされる保証がないのが現実なのに。宿題サボっていようが、贅沢な家庭イベントがなかろうが、そんなことは後回しでいい。そんな子供がいることぐらい、織り込み済みでどんと迎えるのが、大人の仕事だろう。その結果、テストの出来がイマイチだろうが、宿題提出でアタフタしようが、その責任もどんと引き受けて、次の手を考えて子供に向かうのが大人の優先業務だ。子供に感動を無心するなど、100の次で十分だ。「無心」は「支配」に、そして「当たり前」になり、そこに「感動」や「感謝」はかけらもなくなっていく。