スポーツのカリスマ指導者2018年05月18日 23:17

 スポーツは戦争のアナロジーだ。

 あくまで「遊び」であることで、はじめてスポーツは戦争と明確に分断される。だが、その本質には殺戮の影があることは言うまでもない。殺す、盗む、出し抜く…ルールに支配された遊びでなければ、決して許されないことのオンパレードだ。プロスポーツは選手の生活の糧であって遊びではないという声も聞こえてきそうだが、プロスポーツは観客に対してエンタテインメントを提供することが目的であり、その意味ではショーなので、当然遊び要素や「遊びではない」という演出(つまりフリだ。プロレスの血糊などが典型)が不可欠だ。もっとも古代ローマ以来、流血と殺戮を好む観客は存在しているが…。

 アマチュアスポーツは、当然「ショー」ではないし、それで生計を立てていないからこそ「アマチュア」と言える。だからあくまで「遊び」でなければならない。遊びに現世的な権力や富が流れこむのはどう考えても野暮であり、本質を逸脱している。

 ところが、指導者ということになると話は違う。指導者は指導することで生計を立てている。完全ボランティア指導者もいるのだろうが、強豪と呼ばれるスポーツ集団の指導者ともなれば、完全ボランティアというわけにもゆくまい。そしてそういう指導者には「勝つ」ことのみが求められる。

 つまり、「遊び」ではなく、「勝つ」ことが優先される。この瞬間、スポーツはその原点である「殺戮」にすり替わる。

 「勝つ」ことを最優先に据えれば、当然「殺戮」が表面化する。いかにルールに則っているかのごとく見せかけながら敵を「殺戮」するか。見かけはどうあれ、「殺戮」が目的化しているのだから、普段の思考や言動もそれに影響される。暴力的支配、恐怖政治、弾圧、圧政、プチ独裁国家の出来上がりだ。そして独裁権力に指導者が溺れ果て、最後の一線も忘れはてる時が必ずやってくる。かくして事件は起こる。

 いい加減「遊び人の大将」を持ち上げるのはやめたらどうだろう。
 「遊び」の価値を正しく認め、「遊び」が「殺戮」に先祖返りする危険性を肝に銘じておくべきではないのか。

 だが、世はオリンピックに血道を上げ始めている。アマチュアスポーツが「国威発揚」という現世の利益と結びつくとき、どのような「殺戮」が起きるのだろうか…我々はすでにその恐ろしさ、おぞましさを知っている。

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