指導者以前2018年05月30日 18:11

 アメリカン・フットボールの事件。

 厳しい裁定というより、もうはっきりとした断罪と言えるだろう。完膚なきまでに監督側の主張は否定されてしまった。

 傍証となる大量の資料やデータが入手できることすら、あの監督たちには理解できなかったのだろう。世の中は進んでいる。ズルを決め込み、暴力によって根拠のない権力を維持し、その責任を幼稚な強弁によって糊塗しようとする不逞の輩にとっては悪い方へ。虐げられ、言葉を奪われた人々にはよい方へ。

 そのような世の流れすら理解していない上に、客観的認識と自分自身の行動認識に大きな乖離もあったようだ。インカムを落とすどころか、ずっと持ちっぱなしで装着すらしていないことが映像ではっきり撮られている。コーチと選手との乖離どころか、自分自身の身体認識そのものが現実世界と乖離しているのだから、笑うに笑えない。

 ここまで来ると、健全な年長者とは到底呼べない。年長者は長い経験と、変化する目の前の事象とを的確につないで若い世代にアドバイスをする能力を持ったものを言う。いくら年格好ばかり上であっても、その能力(孔子が言うところの「耳順」である)がないのなら、指導者どころか、年長者失格である。彼は正しく齢を重ねることに失敗してしまったのだ。

 暴力と威嚇、脅迫によって他者を支配し隷属させるのは、獣の社会のシステムだ。奴隷と支配者の関係もまた獣性の延長にすぎない。それが支配の基盤となっている支配者は、当然そのような前人間的社会の勝組であったのだろう。人間未満の社会環境を構築するのが隷属支配ということになれば、それを打破し、新しい社会の構築を目指すのが学問と言える。この国の最高学府と呼ばれている大学というシステムの上位に、前人類的権力者が存在することもまた、大きな矛盾だ。

 このような前人類的存在が経営に参画し、人事に影響を与える可能性がわずかでも残っている限り、この問題は解決し得ないだろう。正しく「遊ぶ」には、社会的にも知的にも「人間」レベルであることが求められている。獣レベルの存在には「遊び」と「殺し合い」の区別などない。

 スポーツをおのれの権力欲の保持と、それに伴う隷属支配(これには経済的搾取ももれなくついてくる)の保守の手段とする獣レベルの存在に、遊びとしてのスポーツを委ねるわけにはいかないという人間レベルの存在が反撃したというのが、今回の事件の根底にある図式ではないのか。