「アウトロー」を観る2018年06月03日 22:59

 クリント・イーストウッドの「アウトロー」を観る。

 北軍の腐敗した軍人に家族を殺された農夫が、銃の腕を磨き、復讐の鬼と化し、レジスタンスとともに戦い…となると、なんとも殺伐とした話になりそうだが、そうならないのがなんとも不思議な作品だ。

 復讐の道中でひょんなことから助けた先住民の女と老人と道連れになり、その後も道連れは増え、やがては小さな農場にファミリー的に住み始め、復讐の鬼もしだい連れに毒気を抜かれ、ユーモアが作品に流れ始めるにつれて丸くなり、先住民とは共存の道を求めるようになる。

 もちろん最後には復讐を遂げる戦いが待っているのだが、この作品は単なる西部劇ではなく、理不尽な暴力に対する抵抗や怒り、ともに生きる相手を尊重し、敬意を持って接する重要さ、弱いもの、強いたげられたものへの共感と愛情に軸足がある。それを体現する主人公のヒーロー像は、マカロニ・ウェスタンのイーストウッドというより、ダーティハリーのそれに近いようにも感じた。

 アメリカの理想のヒーロー像とでも言おうか。エンタテインメント性も十分で、西部劇に馴染みがない人でも楽しめそうだ。

「オマル2 征服者たち」読了2018年06月04日 22:19

 ロラン・ジュヌフォールの「オマル2 征服者たち」読了。

 SFはアメリカの専売特許ではない、とばかりに、伝統的なSF大国であったフランスから登場した名作と言っていいだろう。あまりに広大で果てしない世界「オマル」を舞台にしたロードストーリーとなっているのは、全作「オマル 導きの惑星」と同様だが、今回は3つのストーリーが同時進行するスタイルとなっている。それぞれのストーリーはこのシリーズの大きなできごととつながっているが、3つのストーリーは時期が同じという以外、接点を持たない。オマルの広大な世界では、同時並行的できごとが直接接触することすらないという趣なのだろうか。

 決して抽象的・哲学的・政治的で、難解な小説ではない。上質のエンタテイメントであり、同じフランスということで言えば、成功したリュック・ベッソンの映画とでも言えばいいのだろうか。かつてのSFの良いとこ取りに、現代社会への風刺を程よく添えた感じ。

 いずれにせよ読み終わるのが惜しいと感じさせてくれる作品。最後は旅の終わりと別れがあるのだが、どことなく清々しさを感じるのも前作同様。

 ちなみに全作の続編という謳い文句は少々抵抗がある。この作品は前作より数百年も過去の時代の話なのだから。いずれにせよ、他の「オマル」シリーズの翻訳が望まれる。もちろん、ヴェルヌの伝統を受け継ぐ他のフランスSFの翻訳も同様だ。

「ダイヤモンドの犬たち」を観る2018年06月07日 00:15

 「ダイヤモンドの犬たち」を観る。

 うるさいことやリアルな設定などという、ヤボなことは言ってはいけない。金庫破り、カーチェイス、銃撃戦、追う側、追われる側ともに非情極まりないが、強引とも言えるテンポの良さが陰惨さを相殺している。お色気サービスもちゃんとはいっていて、アクション映画の定食としては万全の設定。

 ピーター・フォンダのヴィランぶりもよかったが、テリー・サバラスの悪っぷりもそれ以上。ワルとワルの攻防戦といったところか。

 肩の凝らないB級映画としては十分な完成度だろう。

「我が家の楽園」を観る2018年06月10日 20:33

 「我が家の楽園」を観る。
 M&Aで独占企業を作ろうとする銀行家、その計画のための用地買収が、一件の家の買い取りで滞っている。その家の主は、かつて実業界で活躍したが、30年前に突然「この仕事は楽しくない」とエレベーターで悟り、そのまま引退して気ままな暮らしをしている老人。そのまわりには志を同じくするもの、3世代の家族。気ままな暮らしと言いながら、「アメリカ魂」と称する博愛主義を貫く理想家の老人の孫娘と、資本主義の権化のような銀行家の息子は恋仲になって…という具合に、現代コメディ、あるいは吉本新喜劇のような設定。

 銀行家の一人息子がこれまたなんとも草食系のヘタレ男。おまけに甘やかされた世間知らずのボンボン。彼女のほうがよほどしっかりものだ。老人は来るものは拒まずで、多くの友人に囲まれている。その老人のセリフがなかなか辛辣だ。曰く「困った時ほど、主義を振りかざす奴が出てくる。主義なんて当てにしてはいけない。」曰く「リンカーンは『敵であっても自愛を持って接せよ』と言ったが、近頃は『邪魔者は殺せ』と言っている。」銀行家のあまりの不遜な言葉に激怒し、「あんたの末路には孤独な最期しかない。」と罵倒した直後、落ち込んで「悪いことを言ってしまった。」と、ポケットから孫娘からプレゼントされた新品のハーモニカを取り出して銀行家にお詫びにあげてしまう。人にやさしく、自分に厳しい、アメリカの理想像というところだろう。

 アメリカ映画はこういった、一見ナイーブに見える理想を高らかとうたいあげることがよくある。たとえナイーブでも正論はきちんと主張する、そういったフェアなところは、アメリカの最大の長所であり、それを支えるのはつねに名もない民衆だという設定もおなじみだ。スパイダーマンに声援を送るのも民集。ゴーストバスターズを応援するのも民集。民衆に対する絶対的信頼が、アメリカの健全さの最後の防壁なのかもしれない。

 ちなみに、ヘタレ息子を演じたのは、名優ジェームズ・スチュワートの若かりし頃。そう、この作品、1938年制作である。80年経って、アメリカはこの作品の風刺から逃れることができているだろうか。

 そしてもちろん、日本は…

 この映画のような大団円が、現実では「見果てぬ夢」と笑われないことを切に願いたい。

「マルタの鷹」を観る2018年06月12日 00:14

 久しぶりに「マルタの鷹」を観た。

 以前観たのはもうずいぶん前のこと。正直言ってあまりピンとこなかった。会話が多く、おまけに早口。なんだか最初から最後までまくし立てて終わったようなイメージで、消化不良を起こしてしまった。

 今回はそういうこともなく(歳を取って少しは賢くなった?)、最後まで楽しむことができた。原作の分量から考えて100分程度の映画はどう考えても短すぎる。大胆なカットと早口セリフは、まるでSPレコードに無理やり曲を収めるためにリピートをカットしてハイペースで録音するような感覚だったのだろう。もしかしたらこの映画には、当時のSPレコード作成のノウハウが反映しているのかもしれない。とすれば、配信主流で事実上エンドレス収録が可能となった現代では、もうこういう大胆なハイスピード映画は作りにくくなったのかもしれない。

 派手なアクションもなく、主人公はドライで、聖人君子ではなく、金に汚いところがあると世間では思われている。キャストはみんな悪党で、互いに馬鹿し合い。そして頭が切れすぎる主人公は、最後に辛い選択を迫られる。

 相棒が殺されたら、男は、探偵は黙ってはいられない。最後のこのセリフが、不敵に笑いながら実は怒りに燃える主人公の行動理由。そのためにはどんな非情な手段も厭わない。もちろん自分自身が傷ついても。こういうダンディズムを具現化する俳優とくれば、やはりハンフリー・ボガートのはまり役ということだろう。犯罪の解決には必ず苦い現実がつきまとう。ハードボイルドの基本を確立した作品。