「今日も嫌がらせ弁当」を観る2019年07月07日 20:26

 「今日も嫌がらせ弁当」を観る。

 お付き合いで劇場へ。そうでなければ絶対に近寄ることもなかっただろう。

 弁当絡みの映画なら、最近のインド映画に数本佳作がある。もっとも日本の風習とは違う設定なので単純比較はできないのだが。

 ユーモアやペーソスといったものとは全く無縁の笑い取りや、お決まりの唐突で必然性の感じられない芸人(それも少々旬を過ぎた)ネタなどで、さっそく閉口気味。芸人を出しさえすれば人気が取れるというような安直な発想(あるいは営業サイドからの圧力または忖度?)はそろそろやめたほうが良いのではないか。連れによると登場するキャラ弁は実際に原作ブロガーさんが作ったものをきちんと再現しているということだったが、残念ながら当方、キャラ弁そのものにはなんの興味もないので、その点は全く楽しめない。ストーリー的に必然性があるのは最後の巨大弁当ぐらいか。そこはある程度予想のつく(お涙頂戴の)頂点なので、まあよしとできるところではある。他は単に「キャラ弁」という道具による小エピソードにすぎない。そして、さほど笑えない。

 妙なアニメーションによる状況説明やら、ギャグ漫画を地で行くようなリアクションなどは鼻につく。フェイクのタイトルロールは、最初は正直ホッとした。思ったより早く終わってやれやれと思った瞬間、マンガチックなフェイク。これが再度繰り返されるとげんなりする。いいギャグ(大してそうとも思えないが)は一度でやめておけといったのはアインシュタインだったか。

 総じて、番組改変前後のスペシャルドラマでTV放送するのであれば、アベレージの出来だろう(国産TVドラマが苦手は私は当然逃げ出すか、TVのスイッチを切る)。料金を取ってわざわざ劇場で上映するほどの作品とは思えない。

 大スクリーンでだれにも邪魔されずに、普通のTVの2時間ドラマをノンCMで見たい向きにはおすすめできる。

「神の水」読了2019年07月10日 22:10

 パオロ・バチがルピの「神の水」を読了。

 長編「ねじまき少女」、短編集「第6ポンプ」のバチガルピは、今回「第6ポンプ」で取り上げた、アメリカ西部の水不足問題を真正面から取り上げて、見事なディザスター小説に仕立て上げた。

 コロラド川の水が枯渇し、ネヴァダ、アリゾナ、カリフォルニアの三州が水利権を巡って内戦寸前の状態となっている未来。州境には民兵が立ち、人的通行は厳重に制限され、カリフォルニアは強力な武力でネヴァダ、アリゾナを牽制している。そんな中、ハリケーン被害のためテキサス州からの大量の難民がアリゾナへ流入し、州都フェニックスは急速に治安が悪化していた。

 ネヴァダ州ラスベガスの有力者、ケースに拾われ、ラスベガスの水利権を保持するためにもっぱら汚れ仕事に従事する水工作員・ウォーターナイフ(これが原題)のアンヘルは、ケースの命を受け、かつての友人で、同じくケースのもとで働いている同僚ウォーターナイフのフリオの不審な動きを探るべく、フェニックスへ潜入する。そして暴力と無法のまかり通るフェニックスの闇へとはまり込んでいく。

 東部からフェニックスに住み込み、取材を続けるジャーナリストのルーシーは、儲け話をちらつかせていた友人でフェニックスの水道局職員ジェイミーの殺害を知り、その裏でうごめく陰謀を暴き始める。

 テキサスからの難民少女マリアは、スラムのボス「獣医」への支払いに奔走するが、次から次へと災難に見舞われ、とうとう危険に足を踏み入れ、生命の危機に直面することになる。

 この3つの物語が交差する時、物語は大きく動き、さらなる破壊と破滅が始まっていく。そして予想外の静かなラストシーンへ物語は進んでいく。

 「シップブレイカー」がジュブナイルであったために、抑え気味のストーリー進行だったが、今回は暴力や残酷シーンもたっぷりと「お行儀悪く」描写され、崩壊しつつあるフェニックスを遺憾なく表現している。ボリュームはあるが、一気に読ませる筆力はアメリカSFの醍醐味と言えるだろう。

「ラスト・タンゴ・イン・パリ」を観る2019年07月14日 15:38

 「ラスト・タンゴ・イン・パリ」を観る。
 いろいろと物議を醸した作品だが、今の目で見るとさほど衝撃的とは感じない。「ベティ・ブルー」や携帯小説の方が今となっては過激な表現だろう。

 現実から開放され、名前さえ使わず、生活臭のかけらもないアパートの一室でしか、生の自分を感じられない男と女。男は「男」としての現実での負い目の反動かのように女に高圧的に振る舞い、仕事オタクで本当に彼女を見ているかどうか疑わしい彼氏との関係に揺れる「女」。現実から逃避して、生の実感を得ているのだろう。

 だが、そんな部屋にも現実は容赦なく襲いかかり、その仮想の世界の不毛さを暴き出していく。そしてラストへ…

 タンゴフロアのいかにも人工的で、怪しげで、滑稽で、醜悪なダンスシーン、その「ラスト・タンゴ」が終わると、その醜悪さは主人公たち自身の姿にすり替わっていく。醜い中年男と、最後には自己保身に走る女。

 キリスト教的「性の抑圧」に歴史的に馴染んでいない我々には、性と人間の本性とのつながりについての感じ方にずれがあるので、この作品を心底わかるのは難しい。だが、虚しさ、不毛さはひしひしと伝わってくる。

 色んな意味で「つらい映画」であろう。

「汚れなき悪戯」を観る2019年07月16日 23:54

 「汚れなき悪戯」を観る。

 有名な作品なのに、なかなか縁がなくて観ることができない作品がある。これもそのひとつ。一念発起してやっと観ることができた。そういえば、主題歌「マルセリーノの歌」は有名だが、いまはあまり耳にしなくなった。

 ストーリーはキリストの奇跡譚のひとつと言えばそれまでだが、冒頭、三人の修道士が崩壊した貴族の屋敷を修道院に再建しようとするシーン、村人がそれを見て笑い、修道士がその村人に何を笑っているのか、何が望みかを尋ねると、村人たちは「手伝いたい」と一言。この相互扶助のスタンスの清々しいこと。このシーンの他にも、宗教を離れて人間の善意の普遍性そのものが随所に描写されている。だからこそ名作として世界中に愛されているとも言える。

 数年後、12人に増えた修道士(12使徒と同じ数!)のもとに、生まれたばかりの捨子。右往左往しながらもこの子を育て、生みの親や里親を探そうとする修道士たち。だが村は貧しく、そして欲にまみれた権力者も現れる。修道士たちは捨て子を育て、やがてマルセリーノと命名された捨子は5歳に。

 5歳児とくれば、われわれにとって馴染み深いのはもちろん「のはらしんのすけ」ということになるだろう。マルセリーノも本質的には同じ。良い子なのだが、悪戯が時として大きな迷惑を引き起こすことになる。まるで善良な村人のなかに、欲に溺れた男が現れるように。

 神の現前によって幕が引かれるのだが、マルセリーノとともに村もまた浄化されたということなのだろう。そしてその話は、病気で床に伏せるまだ幼い娘とその両親の前で、名もない修道士から語られている。その意味もまた明白だろう。

 マルセリーノは、全ての子供、母を求める全ての人間の道標であり、この国で言う「地蔵尊」のような存在だったのではないだろうか。長く内乱と独裁の続いたスペインでは、このような祈りが強く求められていたのではなかろうか。それが深読みでなければよいが。

「ラ・ラ・ランド」を観る2019年07月29日 22:04

 「ラ・ラ・ランド」を観る。

 スケジュールが合わず、劇場に足を運ぶこともできないまま放置してしまった作品だが、やっと観ることができた。ミュージカル映画だが、往年の予算大量投入型ミュージカルというわけには行かず、往年のミュージカル映画を知る観客には「現実離れ感」が不足、ミュージカル映画そのものを知らない若い観客には「荒唐無稽」という感覚を持たれるのではないかというのが、第一印象。決して悪い意味ではなく、これが現代のアメリカ映画におけるミュージカル映画のスタイルということだろう。

 ヒロイン・ミアは冷静に見ればかなりイヤな女だ。眼の前の「女優」としての自分のためには、なりふり構わず、周囲に迷惑を掛けても気にしない。よく言えば自分に正直、悪く言えば節操がない。もっとも大半の人間はそんな生き方ができないのだから、そういう人物に憧れも感じる。そういった微妙なバランスでギリギリの線でヒロインとして踏みとどまっている危うさが魅力となっている。
 相手役のセブもまた世離れした「中二病」的存在。斜陽ジャンルである(と思われている)ジャズに入れあげ、グッズを集め、古典的ジャズプレイに固執して職を失いながら、ジャズピアニストとして、いつか自分の好きなジャズを好きなだけ演奏できる店のオーナーになることを夢見ている。
 こういった二人を象徴するのが二人の車。猫も杓子も飛びついた「エコカー」であるプリウスに乗るミアと、クラシカルでアメリカンなオープンカーに乗るセブ。この二人が恋に落ちるが、この恋はどこか地に足のつかない、夢のような恋愛。ミュージカル的な要素の頂点はプラネタリウムでの二人が浮遊するシーンとなる。
 
 現実はそんな二人に情け容赦なく襲いかかる。生活のため、セブは現代風のポップなジャズのバンドに入り、成功する。目の出ないミアとの間に溝ができ、一時は破局する二人。そんな時、セブ経由でミアに大きな役のオファーが来る。実家に帰り、すっかり意気消沈したミアを叱咤するセブ。だが、ミアの成功が必ず最終的な決別になるとセブは予感している。

 そしてラストシーン。これはセブの未練そのものだろう。それを断ち切るように演奏を終えるセブ。その演奏を聞くミア。セブはミアを責めることもなく見送る。まさに痩せ我慢の「いい男」そのもの。元祖はやはり「カサブランカ」か?もっともボガードはピアノを弾かないが。

 どこか懐かしく、馴染みのある世界観と思ったら、これは「なごり雪」や「想い出がいっぱい」といった、往年のヒット曲の世界観そのものではないか。その意味で、やはりこの作品はミュージカルの王道を行っている。というより、「男はつらいよ」を地で行くか。

 娯楽として、直球ストレートなラブストーリーだ。こういう直球、潔くていい。