「ラスト・タンゴ・イン・パリ」を観る2019年07月14日 15:38

 「ラスト・タンゴ・イン・パリ」を観る。
 いろいろと物議を醸した作品だが、今の目で見るとさほど衝撃的とは感じない。「ベティ・ブルー」や携帯小説の方が今となっては過激な表現だろう。

 現実から開放され、名前さえ使わず、生活臭のかけらもないアパートの一室でしか、生の自分を感じられない男と女。男は「男」としての現実での負い目の反動かのように女に高圧的に振る舞い、仕事オタクで本当に彼女を見ているかどうか疑わしい彼氏との関係に揺れる「女」。現実から逃避して、生の実感を得ているのだろう。

 だが、そんな部屋にも現実は容赦なく襲いかかり、その仮想の世界の不毛さを暴き出していく。そしてラストへ…

 タンゴフロアのいかにも人工的で、怪しげで、滑稽で、醜悪なダンスシーン、その「ラスト・タンゴ」が終わると、その醜悪さは主人公たち自身の姿にすり替わっていく。醜い中年男と、最後には自己保身に走る女。

 キリスト教的「性の抑圧」に歴史的に馴染んでいない我々には、性と人間の本性とのつながりについての感じ方にずれがあるので、この作品を心底わかるのは難しい。だが、虚しさ、不毛さはひしひしと伝わってくる。

 色んな意味で「つらい映画」であろう。