「ゲームの規則」を観る2019年08月01日 22:45

 ジャン・ルノワール監督の「ゲームの規則」を観る。1939年制作だが、本国フランスでは興行的に大失敗、日本での初公開は1982年にまで下がってしまう。逆に言えばそれまで作品としての命脈が保てているのだから、興行的な結果がどうであろうと、名作と言っていいだろう。

 大西洋単独横断飛行の記録を打ち立てた飛行士アンドレは、すでに制度としては存在していないが、実体として残存している貴族、ロベール・ラ・シュネイの妻クリスチーヌの愛人。飛行場にクリスチーヌが迎えに来ているものと期待したが、それが裏切られ、アンドレはなんとも子供っぽくすねてしまう。クリスチーヌの方はそんなアンドレが少々「うざい」。クリスチーヌの夫ロベールもまた別れたい愛人がいる。そしてクリスチーヌとアンドレの共通の知人であるオクターヴの差配で、彼らは他の貴族たちとともにロベールの持つ別宅でのパーティに参集する。

 このパーティがもうぐちゃぐちゃである。貴族も使用人も浮気など当然のごとく。それをとやかく言ったり、まして本気になって入れあげたりするのは「ゲームの規則」違反であり、困り者ということになる。言ってしまえば「野暮」は認めてもらえない。

 パーティの出し物の余興ときたら、今のテレビの一発芸芸人のオンパレードのようなもの。余興の裏では三角関係や浮気を巡るドタバタ。そしてラストには悲劇が。その悲劇さえも「ゲームの規則」に則って、当たり障りのない、世間体のいい「作り話」で塗り固められてしまう。幻想の中にどっぷり浸かり、現実から逃避して、ぬくぬくと退廃した世界に安住する登場人物たち。だが決して愚かではない。ラストに「もうああいう人物はいなくなってしまうのでしょうな」とつぶやく老貴族。時代に背を向け、過去にしがみつき、享楽にうつつを抜かす日々は確実に滅び去っていく。

 滅びゆく「古き良き時代」の醜悪さをユーモアも交えてさらけ出し、その滅亡の予感を漂わせる。おりしもこの作品が日本にやってきたのはバブル景気前夜。象徴的な時期である。

 この作品が不評で失敗した翌年、フランスはナチスの侵攻によってドイツの占領下に置かれ、現実世界ではこの作品に描かれた「古き良きフランス」は完全に崩壊してしまい、逆にその反骨から「天井桟敷の人々」という名作が生み出されていく。こういった背景を知ると、またこの作品を観る目も変わっていく。

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