「天気の子」を観る2019年08月10日 22:14

 「天気の子」を観る。

 今の目で見れば明らかにヒットの定石を踏んだ「君の名は。」は、あえて新海監督の世界を抑制した点があった。今回はむしろそんな点を取り戻したかのようだ。

 物語の基本構造やキャラクターは「君の名は。」とほぼ共通している。いずれも土俗的、民族的、あるいは神話的世界と現実世界との相克と侵食、それによる世界の変容を世界軸に据えている。

 だが、「君の名は。」が男女の再会へと向かうストーリーをストレートに綴ったのに対し、「天気の子」はむしろ主人公の成長と社会との対峙、世界変容に対する受容の物語が絡む。主人公のモノローグが狂言回しとなるスタイルは「言の葉の庭」に近い。

 かつての作品の登場人物のカメオ出演もあるが、アニメーションの強みか、実写におけるカメオの(特にこの国の作品にありがちな)いやらしさがないのがいい。楽曲とのマッチングは言うまでもなく素晴らしい。さりげないモブのセリフや伏線もしっかり張られていて、風景や水の描写と対等なほど緻密な構成がなされている。それにしても雨や水の描写は素晴らしい。

 象徴的な道具立ても。主人公帆高が手にしてしまう「拳銃」。これが少年期からの脱出アイテムとして登場する先行作品と言えば、ロブ・ライナーの名作「スタント・バイ・ミー」が頭に浮かぶ。しかし、考えてみればエクスカリバーを筆頭に、神話・伝説の世界でも「聖なる武器」が英雄の触媒となる物語は、武器による男子の通過儀礼の定石とも言える。また、ヒロイン陽菜の首のチョーカーも、拘束や逼塞のイメージがつきまとう。

 貧困、性搾取、地方格差、対象者に寄り添わない福祉、人手不足とは裏腹の泥沼の就活地獄、シングルファーザーの問題など、さり気なく提示された社会の問題は重い。そんな中で失いたくないものを失い、それに気づき、苦しみ、涙する者、何を失ったかすら気づかず、喪失の苦しみを理解できない者、失ったことを受容し、その痛みを理解する者、社会の変容をみつめ、毅然としてそれを受け入れる者。主人公二人の周りには様々な群像がある。そういえば、「天気の子」には主人公の精神的な父親、あるいは兄のような存在が登場する。これは父親不在の世界が多い新海作品には珍しい。老人たちの凛としてしなやかなありようは今回も作品に重みを加えている。

 この作品のテーマのひとつに、新海作品の初期から取り上げられている「犠牲」の問題がある。今回の結末はひとつの選択だ。今の世の中の流れのなかで、この選択がどのように受け入れられるか。賛否は当然あるだろう。スッキリとカタルシスを構成した「君の名は。」に比べ、「天気の子」は重く、観るものの心に攻め入ってくる。

 テーマソングの最後のフレーズを、観客は「絶望の中の希望」と取るのか、「希望にしがみつかなければ耐えられない絶望」と取るのか。私には、たとえ叶わないとわかっていても捨てられない、見果てぬ夢のように感じられる。

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