クルレンツィスの「悲愴」を聴く2019年11月05日 22:42

 クルレンツィスの「悲愴」を聴く。

 CDが手に入りにくくなって久しい。実物を手にとって購入など、もう地方ではJ-POPのアイドル系かなにかでない限りまず無理になった。今回はハイレゾ音源のダウンロード購入で音源を入手した。

 再生システムはraspberry pi3にhifiberry DAC proをのせたもので、電源もraspberry piから供給、特になにも手を加えていないものを使った。有線LANで、raspberry pi2にUSB-HDDを繋ぎ、SAMBAとDLNAサーバに仕立てた簡易NASに収めたデータを引き出す形で聴く。プリアンプ以降は自作真空管式、スピーカーも従来から使っているもの。

 細部まで彫琢され尽くしたような演奏で、全休符の扱いなど、ケレン味を感じてしまうようなところが目立った。まさに目覚ましいといった感が強い。カラヤンの晩年のような静謐でもなく、ゲルギエフの慟哭とも違う。カラヤンの彫琢にアーノンクールの過激さを加えた感じだ。

 だが、逆に全体を通して自然かと言われれば、むしろ人工的な感じが強い。どこかクールで人を突き放すような感じもある。決して不快というわけではないが、強いて言えば60年代末のモダンインテリアのように、生活感が一掃されたクリーンな世界と言えばいいのだろうか。それはそれで素晴らしいが、これ一択というと少々息苦しい。

 音は素晴らしい。とんでもなくリアルで、この音が10000円するかしないかの再生ソースから流れてくると考えると驚くばかりだ。

「エターナル・フレイム」読了2019年11月10日 21:30

 グレッグ・イーガンの「エターナル・フレイム」を読了。

 「直交」三部作の第2部、前作で母星の滅亡を防ぐ方策を手に入れるために宇宙へ飛び出した「孤絶」コロニーでの出来事と、接近してくる脅威についての話が展開する。

 電子がない、つまり電子技術がまったくない世界で、半物質や対消滅の概念を表現するのはかなり離れ業だが、それをストーリーの上で再現するのは見事。生存に空気は必要ないが、体熱の放出のために空気が必要という、植物系生命体の描写も興味深い。彼らの行動を縛るものとしての生殖及び一族の存続が、この作品では男性による女性への暴力的な支配につながるなど、女性に対する頑迷さは人類と変わらない。それでも才能のある女性たちは抑圧や差別を払いのけていく。最後には女性にとっては文字通り生死の問題である「出産」に関する大きな変革(いかにも植物系生命体らしい変革)がもたらされ、社会構造が大きく変わるであろうことを示唆してこの物語は幕を下ろす。

 前作に比べ、閉鎖されたうえ資源も豊かではない「孤絶」での社会そのものへの言及が深まっており、ハードな科学考証に加えて抑圧に対する抵抗を描く場面が増加している。根本的に人類とは違う存在でありながら、こうも人間臭いキャラクターたちであることに、多少違和感は感じるが、あまりにも異質な世界と科学論考が多出する中で、そこがこの作品の親しみやすさにもつながるのだろう。

「ロープ 戦場の生命線」を観る2019年11月23日 23:22

 「ロープ 戦場の生命線」を観る。2015年のスペイン映画。スペイン映画といえば、古くは「汚れなき悪戯」、最近では「パンズ・ラビリンス」もあった。シネコンなどではなかなか観ることが少なくなった国の映画だが、もったいないことだと思う。

 バルカン半島のある地域。1995年のユーゴ内戦の停戦直後、ある井戸に死体が投げ込まれ、井戸水が汚染されてしまう。死体を引き上げて水の浄化をするのは「国境なき水と衛生管理団」の、国籍も出自もバラバラのチーム3人と、新人のフランス人女性の4人。引き上げ作業中にロープが切れ、たった一本のロープを求めて彼らは地雷の残されている危険な地域を奔走することになる。

 作品は決して重くなりすぎず、ブラックコメディ仕立てだ。主人公は本国に恋人を残しながら、派遣先で浮気を重ね、その相手の一人と現地で再開してしまう。このあたりも笑える設定だが、某国のコメディらしきもののような子供だましのコメディなどどこにもないのがいい。爆笑ではなくニヤリとできる。

 しかし現実は悲惨だ。荒れ果てた町、犠牲者たち、残された者も心はすさみ、活動も法やルールに縛られ思うように進まない。徒労感にとらわれ、やり場のない怒りを噛み締めながら、それでも現地の人に寄り添い、主人公たちは飄々と活動に取り組んでいく。緊迫した場面でもどことなく乾いたユーモアで乗り切っていく彼らだが、現実にそうでもしないと押しつぶされてしまいそうな環境だ。

 そんな鬱憤を吹き飛ばすかのような激しいロックが響き、ラストは反戦歌「花はどこへ行った」をバックに、ロープを探し求めた道中の様々な情景が雨の中で繰り広げられる。そしてラスト、あの井戸の中の死体の問題も思いがけない形で解決を迎える…

 声高でもなく、悲愴でもなく、安易なハッピーエンドでもなく、戦争の傷跡を引きずりながらも、生きていく人々の日々は続いていく。くすりと笑い、怒りと失望に心を揺るがし、そして最後に僅かな、だが確かな希望を抱かせて、この悲喜劇は終わる。

 良質のブラックコメディであり、良質の反戦映画だった。スペイン映画、恐るべし。

「ミッドナイト・イン・パリ」を観る2019年11月24日 20:32

 「ミッドナイト・イン・パリ」を観る。

 ウディ・アレンのコメディで、現実から逃避する話と言えば「カイロの紫のバラ」が思い浮かぶ。あれは映画の世界から飛び出した男と、その役を演じた役者と、映画にしか救いを求められない女との三角関係的な作品だった。そしてラストのなんと悲しいことか。

 今回の主人公はシナリオライターの男性ギル。金持ちの婚約者とその家族とも曲がりなりにも付き合っていられる程度の収入と成功が得られている、つまり売れているわけだが、実は長編小説を書こうと四苦八苦している状態。雨のパリが大好きな彼は、実は婚約者ともその家族とも趣味が合わない。婚約者の知り合いのスノビッシュな学者とも反りが合わない。それでも婚約者との関係を保とうとしている。

 そんな彼がふとパリの裏通り、深夜12時に、クラシックなプジョーと出会い、それに乗せられ、なんとジャン・コクトー主催のパーティに連れて行かれ、フィッツジェラルド夫妻やコール・ポーター、はてはヘミングウェイとも出会ってしまう。彼らはまさにギルのアイドル。こうしてギルは夜な夜なパリの町でクラシック・プジョーを待つことになる。その後もピカソやガートルード・スタイン、ダリ、ルイス・ブニュエルたちと出会い、ピカソの愛人だったアドリアナと出会って恋に落ちてしまう。

 婚約者との三角関係に悩み、創作の壁に悩みながら、彼は20年代パリの文化人サロンで多くを学んでいく。やがてある夜、アドリアナと二人で過ごす夜のパリの街角に、今度は馬車が…

 真夜中のパリがそれぞれの黄金時代へと連れて行く魔法は、「カイロの紫のバラ」という映画の仕掛けと似通っている。ヘミングウェイに小説を読まれ(おそらく私小説的な内容だったのだろう)、現実生活の危機を鋭く指摘されて愕然となったり、さり気なく歴史干渉めいた言動をしてニヤリと笑わせたり。婚約者のピアスを失敬してアドリアナにプレゼントしようとして大騒ぎになるところなどは、信賞必罰のヒチコックも連想してしまった。

 ラストはわずかに希望を抱ける落ちに。雨のパリが嫌いだった婚約者と、新しく出会った雨のパリが最高という女性とがオープニングとエンディングで円環を結ぶ構成は手堅い。

 それにしても、それぞれが夢見る黄金期にタイムスリップするという仕掛けを考えると、ギルを尾行した探偵の夢見ていた黄金期はああいう時代だったのかと、そしてその世界で彼が置かれた結末は、俗物(婚約者の家族の属性を持っている。彼らはネオコンで、アレンはあからさまに嫌っているらしい)の末路としては滑稽であり、可愛そうでもある…ここもまた信賞必罰。