疑問に思うこと2020年05月02日 19:45

 学校再開がのびのびになっている。巷ではこれを機に秋始まりの学校制度に変えてはどうかという意見まで飛び出し、現実味を帯びている。いっそ何もかも9月から年度開始にしてしまうのもいいかもしれない。政府や地方公共団体の予算がずれた半年分どうなるかという問題はあるが、企業もいっそ4月一括採用などというしきたりに振り回されて人事担当がきりきり舞いするより、随時採用にして人事担当を専任としたほうがよほどいいのではないだろうか。かつて氷河期の時代に一括採用で採用しなかった人材を、ハケンと称してヨイショして、人員調整要員として都合のいいように雇用、解雇して社会問題化したことを考えれば、そしてこれからも就職戦線が冷え込むことがまず間違いないのなら、同じ轍を踏まないほうが誰にとっても幸せだ。人減らしで解雇した人間は、決して消費を持ち上げてくれないし、人材を大事にしない限り、個人消費は伸びない。人を人とも思わない経営は、必ず自滅する。

 学校もオンライン授業だなんだと騒がしい。金とインフラのある地方や環境にある学校はどんどんオンライン授業を始め、地方やインフラの貧しい学校は出遅れている。だが、オンライン授業には受講者に対する強制力がない。出席しないと単位がでない授業と違って、オンラインなら回線エラーやトラフィックエラーなど、本人の責任ではない環境で参加不能になる危険性がある。もちろん端末の故障、OSのの不具合、zoomへの乱入だってありうる。リアルタイムオンラインなら、授業時間に生徒はディスプレイの前に腰を据えなければならない。一日何時間の授業をオンラインで実施するのだろうか。ディスプレイの前で、カメラとマイクに向かって反応する時間を考えてみるといい。かつて「TVは一日〇〇時間まで」だの、ゲームは一日〇〇時間以内と条例を作ってみる地方公共団体が現れるだのしているが、オンライン授業も物理的には長時間TV視聴や長時間ゲームと同じ行為だ。くだらないTVやしょうもないゲームはだめで、お勉強ならいいなどというのは、あまりに馬鹿げているように思えてならない。

 テレビでは「東京ローカル」のオジサマやオバサマたちが「子供たちの学ぶ機会」と上から目線で偉そうに語っているが、そんなに子どもたちは「勉強」が好きか?いくら言ってもいうことを聞かず、パチンコ屋に行列したり、ゴルフの打ちっぱなしに「密集」したり、ショッピングセンターに押しかけたりと、自分の命に関わることすら「勉強」しようともせず、わがまま勝手する人間は、無視できるほどの少数と言えるのか?

 本質的に「勉強」は、みんな嫌いだ。好きなら「勉強」ではなく、「道楽」だ。「道楽」は自分でやるもの。他人がさせるものではない(パチンコや公営ギャンブルに他人から指図されて行くのは楽しくないのではないか?)。自分が「面白い」と思ったところで、他人がみんな自分と同じように「面白い」と思うなど、ナンセンスそのもの。そういう「勉強」すらできていないオジサマ・オバサマがコメントしていても、説得力のかけらもない。

 オンライン授業はあくまでオプションに過ぎない。そんなものがなくたって、勉強が「道楽」なら、勝手に自分でやる。「カメラもマイクも壊れました」「操作がよくわかりません」「面倒なので、送られてきた映像だけ見てます」なんて言い訳してサボろうなんてことは、「勉強」が嫌いな「悪賢い」連中ならすぐに考えつく(なんなら充電切れてアダプタ壊れた、なんてのもいい)。受講する側の意識の有無の差が普通の授業以上に拡大することは間違いない。「勉強嫌いもそれなりに」ではなく、「勉強嫌いは徹底的に」引き離されるのがオンライン授業の問題点だ。

 世間がまさにそのとおりになっているではないか。意識のある人々が家にこもってがまんしているのをよそに、意識の低い連中が歩き回り、自己責任をうそぶく。そして両者の間に対立と憎悪が高まっていく。抜け駆け的な自己満足はやめて、本当に考えなければならないことをじっくり考える時間とすることはできないのだろうか。格差の本質は「世の中で、自分はどうあるべきなのか」を考える力の有無だ。そんなもの、教科書にもオンライン授業にも出てこない。子供の頃だけ考えればいいというものでもない。一生かけて考えなければならない、これこそが否も応もない「勉強」ではないのか。

「シェルブールの雨傘」を観る2020年05月05日 22:54

 「シェルブールの雨傘」を観る。

 これも内容は知っていても、きちんと見ていなかった作品の一つ。テーマソングはあまりに有名だし、主演女優はカトリーヌ・ドヌーヴ。是枝裕和の去年の作品「真実」に、ジュリエット・ビノシュらとともに出演したのでも有名。

 この作品当時、ドヌーヴは20歳になるかならないか。可愛らしい17歳の少女から23歳の母親までを演じているが、まあ綺麗なこと。この作品で一気にスターになったのもよくわかる。

 レチタティーヴォ(語り)のない、すべてのセリフが歌というのがこの作品最大の特徴。当然歌は(つまりセリフは)すべて歌手の吹き替え。それでも違和感がないのだから見事。ストーリーは典型的な悲恋物なのだが、映像美と歌とドヌーヴで見事に押し切っている。

 とはいえ、監督はヌーヴェルヴァーグの巨匠の一人、ジャック・ドゥミ。若手女優の魅力だけで押し切るような監督ではない。よく見ていくと、物語の古典的骨子に沿っていろいろな仕掛けも見え隠れする。

 まず、若い二人、ギイとジュヌヴィエーヴが最初に登場して繰り出すデートの場所はオペラ劇場。そこでかかっているのは、フランスのお国物とはいえ、「カルメン」である。移り気なファム・ファタールのカルメンであって、「プリティ・ウーマン」に登場した「ラ・トラヴィアータ(椿姫)」ではない。こちらのヒロイン、ヴィオレッタは愛する男のためにあえて身を引き、死んでいくヒロイン。カルメンとは対照的だ。すでに冒頭のオペラの選択からして、この二人の行く末は暗示されている。また、ドン・ホセ同様、ギイにはマドレーヌという幼馴染の娘がいる。

 莫大な課税でジュヌヴィエーヴと母親の傘店は経営の危機を迎えるのだが、その割には母親はおしゃれでどこか世離れしている。このあたり、この親子の経済観念や社会的観念の薄さがうかがえる。そして、ギイとジュヌヴィエーヴの別れのシーン。ギイを乗せた列車がホームを過ぎていくと、あっさりと列車に背を向けていってしまうジュヌヴィエーヴ。名シーンだが演出は冷淡だ。

 ラストシーン、結局二人は別々の結婚をし、偶然、ほんの数分再会する。娘と二人、自家用車に乗り、高価な毛皮のコートを来たジュヌヴィエーヴ。しかし娘と二人と言いながらその表情は硬く、やつれさえ感じる。一方ギイは自暴自棄から立ち直り、幼馴染のマドレーヌとの間に息子もできている。二人の会話はどことなくぎこちない。ジュヌヴィエーヴが雪の中車を出すのと入れ替わりに、マドレーヌと息子がギイのところに帰ってくる。温かい室内、幸せそうな三人、そしてなんといっても、当初暗くおずおずとした表情と演技だったマドレーヌの、輝かんばかりの幸せそうな表情。ジュヌヴィエーヴとマドレーヌが完全に入れ替わってしまったかのような対照。シェルブールからクリスマスの夜、雪の中をパリまで車で帰るジュヌヴィエーヴの前途は暗く冷たい。このあとのドヌーヴは生活に疲れ、不満に苛立ち、なにかに憑かれてしまったような役が多くなるが、因縁めいたものも感じた。

 余談だが、シェルブールからパリまでは約360km。当時の車なら5〜6時間はかかるのではないか。降りしきり積もる雪の夜中、ジュヌヴィエーヴ親子の旅路は安全なのだろうか…

「『馬』が動かした日本史」読了2020年05月06日 20:53

 蒲池明弘著「『馬』が動かした日本史」を読了。

 馬が軍事力の基軸であるというのは、歴史上言うまでもないことだ。だが、馬を飼育するためには広い草原が必要であり、それは農耕社会とは相容れない。「馬」つまり軍事力は火山灰性の土地で、農耕に適さない土の上に立脚し、それが九州南部、関東一円、東北に該当するというのがこの本の提示している仮説であり、十分納得できるものとなっている。

 内容的には連想を多用したアイディアの羅列が多く、史実の裏付けが困難な仮説も見受けられる。取材で訪れた土地の描写も含め、抑制よりも饒舌であり、読者の好みが別れるところか。

 朝鮮半島よりも圧倒的多数の馬を飼育していたという日本。東北や九州南部は朝鮮半島に馬を輸出しており、それが突出した豊かさの基盤になっていたのではないかという考え方も面白かった。様々な傍証による今後の仮説立証が楽しみな本だった。

「シャレード」を観る2020年05月09日 16:38

 1963年のアメリカ映画「シャレード」を観る。

 これもなかなかきちんと観る縁がなかった作品。テーマソングはもとより、ヘップバーンの映画なのだが、どういうわけか仕切りの間合いが合わなかった。本も同様なのだが、映画も音楽も「積読(積視・積聴)」状態になっている。

 オープニングから60年代ががっつりでいい。テーマソングもオープニングの列車のカットを引き継いで、列車の走行音を模したビートに乗って演奏されている。こういうビートの遊びが他にも何回も。
 往年の個性派俳優も大勢。ケーリー・グラントやらジェームズ・コバーン、ジョージ・ケネディやら、存在感が強烈な面々。そしてヘプバーンである。これだけでも十分ではないか。

 お話は現代ファンタジーそのもの。ツッコミどころは満載だが、そんなことにツッコミを入れるのはそれこそ野暮の極み。タイムボカンシリーズにシリアス路線のツッコミを入れるのと同じようなものだ。ストーリーにいい意味で振り回される心地よさを楽しむのが一番。コメディとロマンスとサスペンスのバランスがちょうどいい。どのパートも今ひとつの感があるが、このバランスでないと、トータルとしての作品は壊れてしまうに違いない(現にリメイク版はサスペンス色を強めたら、日本では劇場公開にすらこぎつけなかった)。

 キャストも含めて、絶妙のバランスで作り上げられた、言い方を変えれば危ういバランスで成立した作品とも言えるだろう。どこをいじってもアラが目立ってしまいそうだ。まるで零戦のようだとも言える。重箱の隅をつつくのはひとまずやめて、ぽかんと口を開けながら最後まで見ているのが一番。

芸能人の政治発言2020年05月16日 10:41

 昨今のどさくさ紛れの火事場泥棒と呼ばれてもしかたのないようなタイミングで提出された某役職の定年延長法案。なぜこのタイミングでと考えると、さらなる勘ぐりができてしまうのは、私がゲスなのか、それともそんな勘ぐりを受けてしまうほど、某国の政治中枢の日頃の言動の積み重ねで信用が失墜してしまっているのか。

 そんななか、多方面からこの法案に対する反対が表明されている。この国では珍しく、芸能人からもネット上に意見が投稿されている。この国では芸能人が政治発言をするのはタブーだという空気が蔓延している(雇用状態を見ればこの空気が漂う理由も察しがつく)のだから、これはまさに一大事だ。今まで「ありえない」はずの層から意見が噴き上がったのだから、「関知しない」どころの騒ぎではない。

 ところが、このような芸能人の政治発言に対して「わかりもしないのに」「もっと勉強してから」などと否定的なコメントが付くという。若年層の意見に対しても同じようなコメントで否定が行われているという。

 選挙権もない若年層に対してなら「もっと勉強して」という言い草も通用するかもしれないが、それならそれで「勉強」の足りない部分をきちんと指摘すべきではないか。いいたい放題こき下ろしておいて放置は「勉強不足」の「子供」に対して無礼極まりない。特に高齢者。この「子供たち」に老後を支えてもらう立場なのだから、高飛車に構えるような自殺行為はすべきではない。

 一方、前述のような否定的文脈が、義務教育も終え、社会人として投票もでき、参政権もある「成年」に対してぶつけられるのは明らかに侮辱以外の何者でもない。それが「芸能人」に対してであろうとだ。たとえくだらないバラエティ番組で「おバカ」を売りにしてる芸能人であろうと、みんな「一票」をもち、自分の判断で投票する権利と能力を持っている。

 ネットでの配信は芸能人だけに影響力があるのだから、もっと自重しろとでも言いたいのだろうか。それなら集票さえできれば、某国の首長のように、国内外で眉をひそめられるようなぶざま極まりないツィートで世界中を引っ掻き回しても良いというのだろうか。

 もし「芸能人」が、政治発言や政治的行動をする能力をもちえない存在なのだと考えている向きがあるのなら、否定発言はもはや芸能人に対する差別と偏見、ヘイト発言にしかならない。他人を見下し、自分の保身(多くの場合、自分自身が能力の低さを自覚し、それを受容できない、ないしは自分の無能に対する強い恐怖が裏にある)のために芸能人を「サンドバック」にしているといっていい。そしてそういう「芸能人」を「ダシ」にして楽しんでいるのなら、これこそ「腐敗」そのものだ。

 あ、もしかしたら、否定発言は上述のことが全てよくわかっている人間が行っているのかもしれない。じゃあそれはどんな…いかんいかん…またゲスの勘ぐりが…自省自省…