「禁じられた遊び」を観る2021年01月06日 22:18

 「禁じられた遊び」を観る。
 言わずとしれた名作映画だが、なかなか縁がなかった一本。
 話の中身も知っているし、テーマ音楽はおなじみだが、きちんと通して観たのは今回が初めてだ。

 5歳の少女ポーレットはパリからドイツ軍侵攻に追われて避難の最中、両親を機銃掃射で殺されてしまう。愛犬が逃げ出したのを追いかけたポーレットを両親が追いかけた末の出来事だった。
 愛犬も死んでしまったが、どうやらポーレットは「死」を実感として理解できていないようだ。愛犬の死体を川に投げ捨てられたポーレットはその死体を拾い、避難民からはぐれてしまう。
 そこに通りかかったのは貧しい農家の子供、ミシェルだった。ミシェルはポーレットを家に連れ帰り、ミシェルの家族はポーレットを受け入れる。

 しかしどういうわけか、ポーレットは宗教的な生活習慣もほとんどなかったようで、葬儀や埋葬といったものと宗教的タブーとが理解てきていない。ただ敏感に反応するのは「殺す」ことに対する恐怖だけ。これが後の事件の引き金となっていく。

 一言で言ってしまえば、まだ分別も物心も満足についていない幼児の近視眼的、刹那的な行動と「大人はわかってくれない」といった少年の不満や怒りがベースにある話といえるが、宗教的な生活学習が欠落した、おそらく中流以上と思われる都市生活者の子供というポーレットの設定には、宗教生活から切り離された無邪気な存在という逆説的なありようが見えるような気がする。また、貧しい農家の生活に根深く存在する宗教生活の中で、貧困や子供に対する過酷な扱い、無理解といった問題も透けて見える。

 そしてどちらの世界にも悲劇をもたらすのは、戦争だ。

 幼女ポーレットの無邪気さは、狂気の世界となった戦時下では、彼女の存在を危うくさせるものにしかならない。さらに頑迷な宗教は無邪気さを受容する寛容さを失っている。宗教生活を知らないポーレットは無邪気な存在であり、それに感化されたミシェルは宗教生活から放逐されてしまう。戦時下で同志であったミシェルと引き離され、ミシェルを呼びながら群衆のなかを一人消えていくポーレットの未来には明るさを感じない。

 ジョン・レノンの「イマジン」は、天国も宗教も争いもない世界の平和を歌った。その世界観をルネ・クレマンはすでに1940年にこの作品で発表しているのかもしれない。

アメリカの惨状2021年01月07日 19:42

 アメリカの惨状。目を覆いたくなる。

 国民の半分近くが貧困の状態にあり、その上前をはねる富裕層が幅を利かせるアメリカは、そのような社会となった時点ですでに民主主義国家として崩壊していたのだろう。単なる資本主義国家に過ぎなくなって久しい。
 この多くの貧困層を先導して味方につければ、大きな票田となる。貧困層は教育の機会も奪われ、ポピュリズムの基層として最適な教育水準と不平不満のエネルギーを持つ。

 この大量の貧困層を扇動して社会変革を暴力的に起こせば、共産革命となる。その行き着く先にはスターリンというモデルがある。また、民主的なシステムに組み込めば、その行き着く先にはヒトラーというモデルがある。いずれにせよ、貧困層に対する施策を欠けば、必ず独裁と混乱と暴力にたどり着く。イデオロギーの問題ではないのだ。貧困層は容易に扇動しやすい。扇動に対する批判的視点を持つほどの学力の保証を奪っているからだ。だから、どんなイデオロギーであろうとも、貧困層はじつは都合のよい存在である。資金源として。安価な労働力として。票田として。
そしてその搾取の結末には必ず破滅が待っている。

 もはやアメリカは焼け野原だ。さらに焼け野原が広がるのか、ここが焼き尽くされた状態なのかはともかく。これからの復興には想像を絶する困難が待っているだろう。そしてその復興に必要なのは、決して「資本」ではない。

 日本とて、他人事ではない。

ツイッターの話2021年01月09日 13:43

 ツイッターがトランプ氏のアカウントを永久に停止した。

 言論統制だという意見も出るだろうし、投稿内容が国家の安定を揺るがすものであるから当然だという意見もあるだろう。

 だが、根本的に考えれば、一国の政治、場合によっては世界中の政治を動かす言論が、わずか100字あまりの、それも即時性、つまり熟考を重ねない状態で発せられること自体、果たして適切だといえるのだろうか。

 他国の問題ではない。いまや世界中の政治家は何かといえばツイートだ。そこにどれほどの政治家としての責任の重みがあるのだろうか。疑問に思えてならない。

心の飽食から心の飢餓へ2021年01月10日 19:59

 緊急事態と言っても、もう言い過ぎとは言えないほどのコロナ禍になっている。やれ対策が後手だったの、GoTo何とやらがどうのこうのと、責任論を追求している場合ではないし、そんなものを追求できそうな責任者も思い当たらない。大昔の芸のネタではないが、「責任者、出て来ーい」と叫んでも、スタコラ逃げ出されるのがオチだ。

 もともと日本人は面従腹背だとはルース・ベネディクトが喝破した通り。現実に目を向けて身を守るが得策だ。そうして考えてみると、本当に今まで「しなくてはいけない」「しないとよくない」と思っていたことに、どれほどの必然性があったのか。

 忘年会も新年会も、しなければしなくても何も困らない。もちろんそれを商機と見て生活を設計した人々から言わせればとんでもないことなのだが、緊急事態とはゆとりのない事態。生きること最優先で生活をスリム化することを考えれば、優先順位は低い。

 芸術を切り捨てていいのかという問題提起はよく耳にするが、シビアな状況では後回しと言わざるを得ない。スポーツも同様。無観客などの工夫でなんとか継続しようとする取り組みには頭が下がるし、感謝してもしきれないが、かつてのような人を集める形は当面難しい。音楽や舞台などでは、数年前からオンライン化が推し進められてきたが、今になって功を奏している。これなら巣ごもり生活でも楽しめるし、嬉しい。

 娯楽も、しなければ死ぬと大げさに言う向きもあるが、のめり込みすぎて身を誤ってしまうことはあっても、やらずに死んだという話はとんと聞かない。娯楽産業が打撃を受けるのは確かだが、外食も娯楽も、根本的に顧客の嗜好によって変動をもろに受けるリスキーで不安定な業種なのだから、緊急事態であるなしにかかわらず、リスクの高い業種といえる。人が集まらなければできない娯楽は、生き残りをかけて新しいスタイルを模索する時期だ。

 だが、忘れてはいけないのは、外食も芸術も娯楽も、優先順位が一位になることは決してないが、なくしてはいけないものだということだ。なんとか存続していくべきだと思う。生きることに汲々とする日々から少しずつ抜けだそうとする心のゆとりが生まれた時こそ、これらが大きな力となる。

 いまは我慢の時、そして、しばらく失った大切なものの価値を噛み締め、飢えるときだ。それを乗り越えた時、飢えは意欲に、そして新たな成長につながる。心の飽食から飢餓へ、飢餓の先にこそ新しい世界が見える。焼け野原という飢餓を乗り越えた先人たちの力を見習うときだ。