心の飽食から心の飢餓へ2021年01月10日 19:59

 緊急事態と言っても、もう言い過ぎとは言えないほどのコロナ禍になっている。やれ対策が後手だったの、GoTo何とやらがどうのこうのと、責任論を追求している場合ではないし、そんなものを追求できそうな責任者も思い当たらない。大昔の芸のネタではないが、「責任者、出て来ーい」と叫んでも、スタコラ逃げ出されるのがオチだ。

 もともと日本人は面従腹背だとはルース・ベネディクトが喝破した通り。現実に目を向けて身を守るが得策だ。そうして考えてみると、本当に今まで「しなくてはいけない」「しないとよくない」と思っていたことに、どれほどの必然性があったのか。

 忘年会も新年会も、しなければしなくても何も困らない。もちろんそれを商機と見て生活を設計した人々から言わせればとんでもないことなのだが、緊急事態とはゆとりのない事態。生きること最優先で生活をスリム化することを考えれば、優先順位は低い。

 芸術を切り捨てていいのかという問題提起はよく耳にするが、シビアな状況では後回しと言わざるを得ない。スポーツも同様。無観客などの工夫でなんとか継続しようとする取り組みには頭が下がるし、感謝してもしきれないが、かつてのような人を集める形は当面難しい。音楽や舞台などでは、数年前からオンライン化が推し進められてきたが、今になって功を奏している。これなら巣ごもり生活でも楽しめるし、嬉しい。

 娯楽も、しなければ死ぬと大げさに言う向きもあるが、のめり込みすぎて身を誤ってしまうことはあっても、やらずに死んだという話はとんと聞かない。娯楽産業が打撃を受けるのは確かだが、外食も娯楽も、根本的に顧客の嗜好によって変動をもろに受けるリスキーで不安定な業種なのだから、緊急事態であるなしにかかわらず、リスクの高い業種といえる。人が集まらなければできない娯楽は、生き残りをかけて新しいスタイルを模索する時期だ。

 だが、忘れてはいけないのは、外食も芸術も娯楽も、優先順位が一位になることは決してないが、なくしてはいけないものだということだ。なんとか存続していくべきだと思う。生きることに汲々とする日々から少しずつ抜けだそうとする心のゆとりが生まれた時こそ、これらが大きな力となる。

 いまは我慢の時、そして、しばらく失った大切なものの価値を噛み締め、飢えるときだ。それを乗り越えた時、飢えは意欲に、そして新たな成長につながる。心の飽食から飢餓へ、飢餓の先にこそ新しい世界が見える。焼け野原という飢餓を乗り越えた先人たちの力を見習うときだ。

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