「聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア」を観る2021年05月02日 19:53

 「聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア」を観る。2017年のイギリス・アイルランド映画。

 監督はギリシャ出身のヨルゴス・ランティモス。寓意的な作品で気になっていた監督だが、今回がランティモス監督作品を観た最初となった。

 コリン・ファレル演じる心臓外科医スティーブンは、良妻賢母の鏡のような美しい妻アナ(ニコール・キッドマン)と、やや落ち着きはないものの利発な娘と息子にも恵まれ、幸せに暮らしていた…が、冒頭からなにやら不穏な空気が漂う。

 まず冒頭、開胸手術で露出している心臓のシーンから始まるところから不安が高まる。そしてスティーブンは謎の少年マーティンとぎこちない雰囲気で会い、プレゼントを送る。どうやら何かありそうだ。

 妻との関係も良好とはいえ、寝室ではなんとも不穏な夫婦のひとときを過ごすなど、どこか奇妙で病的なスティーブンだが、どうやら過去に医療事故を引き起こし、それが原因でマーティンの父が死んだということらしい。

 やがてそのマーティンが不吉なことを口走り始める。、スティーブンが行動を起こさないと、彼以外の家族がみんな奇病で死ぬというのだ。半信半疑だったスティーブンだが、子どもたちに予言どおりの症状が現れて…

 ここからは家族が崩壊していく。それぞれ生き延びるために必死になるのだが、それは他の家族の犠牲を前提としている。最後にスティーブンが取った行動は…

 淡々としたタッチで進むサイコホラーといえるだろう。一番怖いのは人間そのもの。人の信頼が壊れることほど恐ろしいことはない。「ウルトラセブン」第8話のラストの強烈な皮肉を思い出す。家族持ちにはいっそう辛く恐ろしく厳しい作品。

「ローサは密告された」を観る2021年05月04日 20:31

 「ローサは密告された」を観る。ブリランテ・メンドーサ監督による2016年のフィリピン映画。

 スラム街に住む母親ローサとその家族。夫と2人の息子、1人の娘。スラム街で雑貨屋を営む肝っ玉母さんといったところか。

 だが場所はスラム。当然裏社会とのつながりは切っても切れないものだ。この店で「アイス」といえば、麻薬のこと。ローサは闇商売にも手を染めていたし、そうしないと生きていけなかった。

 そんなローサが夫とともに突然警察に逮捕されてしまう。どうやら彼女が麻薬を売っていることを密告した人物がいるらしい。

 警察も腐敗しきっている。釈放してほしければ保釈金を払えとふっかけてくる。もちろん公式な金ではない。没収した麻薬はそのまま闇市場に横流し、その金でローサたちの前で平然と宴会を始める。ローサの子どもたちはさまざまな方法で金策に駆け回る…それでも足りない金を作るためにローサは家族を警察に残して一人スラムへ戻っていくが…

 最初客の若い男に金の無心をされて,けんもほろろな応対をしたローサだが、気がつけばその男と全く同じ言葉を使い、自分が放った言葉をそのまま別の男から投げかけられる…そしてラストシーン。

 なんとも救いのない話。閉塞したフィリピンの貧困層と腐敗した権力の世界だが、これはなにもフィリピンだけのことではない。場所を変え、シチュエーションを変えれば、世界中どこにでもあるやるせない話だ。

 医療従事者の「不足」という実態を脇目に「500人のスタッフ」や「無償労働の医師」を要求するのと、法を犯さないと生きていけないほどに「放置」された貧困層に対して法外な「保釈金」をふっかけるのと、構図にどれほどの違いがあるのだろう。

 ローサの涙を、ローサの世界は誰も知らない。

「ショック療法」を観る2021年05月05日 10:52

 「ショック療法」を観る。1973年のフランス映画。

 管見にしてこの作品の存在も知らなかった。往年の二枚目、アラン・ドロン主演だが、どうやら公開時はかれのヌードシーンが売り物にされていたらしい。もちろん当時の映倫だから、スクリーンはボケボケだっただろう。

 フランス映画での女優の脱ぎっぷりとそのあっけらかんとした健康的な所作は、はっきり言って(よほどそういう年頃か、よほどそういう気分でないかぎり)いやらしさを感じない。ただもう美しい。「これが裸一貫、人間の本当の姿ですが、それが何か?」と主張するようなヌードにわざわざぼかしを入れて「いやらしいから隠しますよ」というのは、むしろ規制する側の「よほどそういう年頃か気分」をさらけ出すようだと思うが、まあ、「そういう年頃か気分」の御仁も映画を観るだろうから(そしてネット社会ではそういう御仁も大声で主張できるからますます)、やむを得ない仕儀か。

 件のヌードシーンは、老いを感じはじめた男女が「エイジレス療法」で若さを取り戻し、生と若さの喜びを謳歌するシーンであって、これがないとこの作品の本当の恐ろしさには響かない。

 問題の「エイジレス療法」というのがとんでもないもので、これを主導するのがアラン・ドロン演じるデビレ医師。二枚目が悪魔的存在を演じるのは今でこそよくあることだが(アニメでさえ「美形悪役」が注目されて久しい)、さすが二枚目俳優。実に怖い。たまに顔を出すぶっ飛び具合、女好きも悪魔的だ。

 そして、この作品は「貧しいものを搾取して豊かさを謳歌する富裕層」に対する告発の隠喩でもある。公開当時は単なるサスペンスだったのだろうが、現代では決して洒落にならない話となっている。

 ドロンのヌード騒ぎ、今の目から見てもちゃちなSFX、B級レベルのストーリー運びと、作品のテーマに宣伝も映像も釣り合わないもどかしさは確かにある。だが、このアイディアで10年後にジェイムズ・キャメロンあたりが撮ったらどうなっただろうか。そんなことを思わせるような…しかしそれではこのいかにもフランス映画っぽい雰囲気は失われてしまうか…

「あの夜、マイアミで」を観る2021年05月16日 16:58

 「あの夜、マイアミで」を観る。2020年のアメリカ映画。レジーナ・キング初監督作品で、amazonが制作した映画だ。

 1964年、プロボクサーのカシアス・クレイがヘビー級の世界チャンピオンとなった。その夜、彼の友人マルコムX、ジム・ブラウン、サム・クックがマイアミのドライブインに集まって、プライベートで祝杯をあげようとしていた。その夜の4人の会話はいつしか自分たちが置かれた黒人差別の実態や公民権運動へと移っていって…

 もとは舞台劇であったものを映画化した作品。今の興行成績優先のアメリカ映画界では資金が下りないのではないだろうか。ハッピーエンドを基本としながら、いろんな社会問題を入れ込んで佳作を生み出したアメリカ映画は、50年台のテレビの台頭とマッカーシズムでガタガタとなった。そこに60年代末からベトナム反戦の風潮もあってアメリカン・ニューシネマが生み出され、アメリカ映画の豊穣さを支えることとなった。

 70年代後半からは娯楽性と作品性を兼ね備えた傑作を多く生んだアメリカ映画だが、映画の投資対象化と予算の増大によって先細りの状態に陥っている。そこに風穴を開けるかもしれないのが、NetflixやAmazonといった新規配信企業の映画作品制作だ。スクリーンに掛けることこそ少ないが、映画作品としての手抜きはない。

 この作品のように、派手さはないが良質な作品(そういう作品が儲かるとは限らない。良薬は口に苦く、豊かになった人間は苦い薬を敬遠する)にとって、配信企業のサポートはあるべきだろう。

 Amazonのレビューサイトにはかなり的はずれなマイナスコメントが見られるが、もともとAmazonのレビューのクオリティのレベルからして、あまり気にするほどのことはないだろう。第一プライム会員なら追い金なしなのだから、料金返せと腹が立つほどのことはない。余命数時間などということもないのだから、わずか2時間(それも劇場とちがって、途中休憩や日またぎ視聴も可能)に目くじらを立てる必要もない。

 いい作品だ。4人のこの作品の後の運命も暗示されているので、史実を知っていればさらに楽しめる。

 ちなみに、ここでは世界チャンピオンを「カシアス・クレイ」と表記しているが、これはこの作品に準じたもの。この作品が描いている一夜の後、彼は「モハメド・アリ」と改名している。

「血を吸う」シリーズを観る2021年05月23日 10:29

 「血を吸う」シリーズ3作を全て観る。日本の怪奇映画のルーツの一つか。「怪奇大作戦」のカラーも匂うのは時代性もあるのかもしれな。

 第1作は「幽霊屋敷の恐怖 血を吸う人形」、1970年の作品。中村敦夫、松尾嘉代、中尾彬といった、今ならアクが強いか個性が際立つ芸能界の重鎮なのだが、当時はまだ若々しい。今なら中村敦夫はこんな役など当てられることもなさそう。松尾嘉代もセクシーなオバサマではなく、(当時としては当然だが)かなり短いミニスカートで可愛らしい。中尾彬もちょっと目端の聞くやんちゃ青年といった感じか。

 若々しく活動的な松尾嘉代に対して、まさに人形のように整って美しい死美人の小林夕岐子は好対照。陰と陽の美女二人、そして謎の中年女性が使用人と二人で住む古びて没落し始めている洋館。戦前ミステリの雰囲気も漂う。

 この作品は他の2作と違い、シリアルキラーものである。戸籍調査や大ネタには現代ではありえない描写もあるが、そこは目をつぶっておおらかに見たほうがいいだろう。というより、今から50年も前は、そういうことが現実に行われ、またまことしやかに受け止められていたという「恐ろしさ」も感じる。

 第2作は「呪いの館 血を吸う眼」、1971年作品。ここからは和製吸血鬼が登場する。岸田森の当たり役となった。キリスト教が生活や文化に浸透しきっていないこの国で、十字架やキリスト教的神を吸血鬼の弱点に設定しないのは良識だろう。十字架には宗教に根付いた意味があり、この国の多くの人はそれを体感しないのだから、ただのアイテムと堕すのは失礼ともいえる。

 今回のヒロインはおっとりした古典的女性。ヒロインの妹の方が現代的で活発だが、犠牲となるのは妹の方。そのギャップが怖い(リアルでもこの妹役の女優、後に作詞家は非業の死を遂げている)。

 一応吸血鬼という海外の存在が日本に来たことに関する理由付けもなされている。リアリティは時代なりなので、ツッコミ無用。

 第3作は「血を吸う薔薇」、1974年作品。今回も吸血鬼は岸田森。舞台は女子校の寄宿舎。この女子校というのが実はピンとこない。主人公(黒沢年雄)が教師として赴任し、教えているのがどうやら心理学(ロールシャッハテストの講義をしている)となると、女子大ということなのだろうか。そして今回は地元の医師として、ブレーン役で田中邦衛も登場する。助監督は小栗康平と、今から見れば豪華なメンバーだ。

 今回の岸田森は女子大?の学長。寄宿舎(大学も)近くの洋館に住み、最近事故で妻を失った。もちろん吸血鬼、餌食は寮の女子大生。学校は山奥の辺鄙なところで、ちょくちょく生徒が「蒸発」する。いまなら大問題だが、ツッコミ無用。当時は人間「蒸発」がちょっとした流行語でもあった。今回は3人娘(寄宿舎のルームメイト…この辺も時代性を感じる)で、今までにはあまりなかったお色気サービスもある(とはいえ、今のアニメのお色気サービス以下ではあるが…)

 びっくり箱ホラーではないが、じわじわ来る古典的な懐かしい怪奇映画だ。冒頭にも書いたが、TVの「怪奇大作戦」と似た空気がある。今の「世にも奇妙な物語」や、「トワイライトゾーン」に近いか。

 この作品の吸血鬼は大量増殖を目的としていない。ヨーロッパの吸血鬼がペストのアナロジーであったのに対し、この作品(1作目は吸血鬼ではないが)群での吸血鬼はどちらかといえば人の「業」を引きずっている。高度経済成長末期の「昭和元禄」と言われた時代では、病気より人のほうが怖いものだった。

 病気より人のほうが怖いのは今も同じだ。病気よりも金が動く、大昔の行事の名前を引きずったイベントのほうが優先され、感染リスクよりも客を集めて金を稼ぐほうが優先される。人の心を励ますなどと美辞麗句を連ねながら、その裏で予想される危機に対する責任など取る気はなさそうだ。イベントを実行することにしか責任を追わず、イベントによって派生する危機には知らんぷりをきめこむのだろう。吸血鬼よりたちが悪い。