信頼しろと言われても…2021年06月01日 20:45

 オリンピックをどうするか、そろそろ待ったなしである。

 個人的にはスポーツを観ること自体に精神的負担を感じるタチなので、もうオリンピック放送はずいぶん前から見ていない。家人が見ていればリビングから退散するし、新聞の見出しレベルで世の中の話題をチェックする程度(日本人の誰が何メダルを取ったらしい)の知識しかもたない(し、1年も経たないうちにその話題は人の口に登らなくなるので、ほとんど忘れてしまう)。だから、リスクがあるならやめるという選択肢には、何の抵抗もない。

 オリンピックのために何年も頑張った選手に向かってそんなことが言えるのか?という論調の文章を最近目にした。その筆者にとっては残念なことだろうが、リスクが大きい大会になるのなら、何の躊躇もなく「おつかれさん。でも、優先順位は君のほうが下だ。今回は諦めなさい。」と私は絶対に言う。選手の努力の見返りの「犠牲」にされる義理は誰にもない。

 それでも、どこかの御仁は「専門家の意見を聞いているから大丈夫」という。

 その御仁が「学術会議」の「人事権」を行使して「学術経験者(つまり専門家)」を選別している。その基準は示さないままだ。

 どんな「専門家」の意見を聞いているのやら。信頼しろと言われても、そりゃ無理というものだ。10万円積まれても、ワクチン打ってやると言われても、いいポストを用意すると言われても、無理なものは無理。

「間違っている」大衆2021年06月07日 19:55

 どこかのお偉い「金」の専門家が、「大衆は間違っている」「大衆はしょっちゅう間違う」と抜かしたらしい。

 そう、私はかなり怒っている。

 誰が、どんな基準で、どんなタイムスパンで大衆を「間違う」と判断できるのだろうか。歴史認識でさえコロコロ変わる世の中で、大衆に「間違い」と指弾するのはそれこそ至難の業だ。

 一番簡単に「間違い」と断定する方法は一つ。自分の気に入らない意見は「間違い」、自分が気に入った意見は「正しい」とすることだ。民主主義などどこ吹く風、多様性などたわごとだというスタンスなら、大衆に「間違い」と大声で、「忖度」することなく言えるだろう。

 もちろん、自分に都合のいいような大衆になるように、あらかじめ大衆を隷属させたり、知力を低下させたりするといった工作をしているのなら、自分の設計通りに動かない大衆を「間違い」といえるだろうが、それは大衆が間違っているのではない。自分の「設計が間違い」だっただけだ。

 「大衆は間違っている」などという物言いは「絶対専制君主」のスタンス以外から生まれるとは考えにくい。世間は自分の考えにひれ伏すべきだ、自分は絶対正しいのだからという考え方が底辺になければ、そんな大胆なことを「大衆に向けて」言えるとは思えない。

 権力性認知症が進行しているのか、もともとそういう勘違い人間だったのか。大衆がそっぽを向いたということを、「自分が間違っているのではないか」と考えるほどの賢さを失っているか、「自分が賢い」ありきで小理屈を作り上げたか。自己弁護の小理屈をでっち上げる程度の小賢しさは当然あるだろう。偉い人なのだから。

 弾圧されるかな?

 大丈夫だろう。「間違っている大衆」の一人がほざいたたわごとなのだから。

アドルノとオリンピックとスポーツ界2021年06月07日 20:15

 アドルノは、戦前ナチスに加担しながら、戦後手のひらを返したようにナチス批判を展開したので、あまり評判がよろしくない。しかし、言葉としては鋭い。大芸術を生み出したドイツが同様にナチスも生み出してことを批判した言葉は有名だ。


「アウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮である」
「アウシュヴィッツ以降、文化はすべてごみ屑となった」

この言葉と昨今のオリンピックや大坂なおみ選手のことを考え合わせると、私の頭には

「アウシュヴィッツ」が「円谷幸吉」「ナチス下のベルリンオリンピック」に、「詩を書くこと」や「文化」が「オリンピック」「スポーツ界」(ついでに「スポーツジャーナリズム」を含めるのも可、もっときついものにも置き換えられるが、それはあえて書かない)に置き換わってしまう。

私がスポーツを観ることに精神的負担を感じる原因の一つはここにある。

「円谷幸吉」をご存じない方は、ググってください。
「アウシュヴィッツ」は…大丈夫でしょう?