「グラン・トリノ」を観る2022年05月03日 23:18

 「グラン・トリノ」を観る。2008年のアメリカ映画。

 クリント・イーストウッド主演、監督。渋く、重く、悲しく、それでいてどこか明かりの見える作品。ホットでもなく、ウェットでもなく、ドライに、淡々と、そしてしみじみとする。

 妻を失い、二人の息子との間の関係もギクシャクし、孫たちとも断絶している頑固で偏屈な老人、コワルスキー。今なら顰蹙ものの差別用語を連発し、愛国心の塊のような、元フォードの工員。若い神父を認めず、教会も死んだ妻の付き合いで行っていただけと言い放つが、実は朝鮮戦争従軍中の作戦で修羅場の作戦に投入され、たった一人生き延びた時、生きるためにかなり残酷な殺戮をした過去がある。本人曰く「命令されず、自分でやったこと」であるこの戦場での殺戮が、コワルスキーに消えない罪の意識を刻みつけている。そんな彼に年若い優等生的神父の言葉が簡単に届くはずもない。

 妻を失った彼も、気がつけば自分の家の回りは荒れ果て、隣にはアジア系山岳民族であるモン族の一家が入居する。差別意識剥き出しのコワルスキーだが、ひょんな事で隣の一家の親戚筋に当たるモン族のチンピラグループやらチンピラ黒人やらから隣の一家の姉弟を助けることになる。隣のファミリーパーティに半ば強引に呼ばれ、異文化との違いに戸惑いながらも、初対面のシャーマンに自分の心の傷を一発で指摘され、また、モン族の料理も気に入り、次第に彼らと打ち解けていく。
 そして事件が…

 あちこちにイーストウッドの過去作品の自己パロディが散りばめられているからこそ、あのラストシーンはいっそう衝撃的となる。伏線はたっぷり張ってあったのだが、すっかり誘導されてしまう。これはやはりイーストウッドという俳優の芸歴とイメージを知悉したイーストウッド監督だからこそできた構成だろう。いくら渋い名優でも、これにはかなわない。

 人種差別的発言が多発するが、それが誰にでも許されるわけではないことも示唆されている。コワルスキーは互いに認めあった相手対しても、歯に絹着セず、平気で悪態をつく。それはすでに差別を完全に乗り越えたがゆえの逆説的差別発言となっているのだろう。認め合えない相手には差別発言は断絶を、しかし認めあった間柄でも、過去の自分の言動を手のひらを返すように変えたりしない。過去の過ちや罪も背負い続けているキャラクターだからこその、偏屈な誠実さと言えるのかもしれない。

 また、チンピラたちも決してステレオタイプではない。差別され、差別し合い、憎み合い、怖れ合う。簡単に、綺麗事で解決できない袋小路に落ちて抜け出せないか、落ちていることにすら気づかない。そんな連中がどんどん自分を破壊してしまう。そして、力は力の報復しか生まない。

 年老いたコワルスキーと、伝統にも周囲にも馴染めないひ弱なモン族の少年タオとの交流と成長物語としても一級品。タオの存在がこの作品の希望を担っている。

 派手さはない。渋めの映画だが、いい映画だ。客寄せの話題こそ少ないが、名品。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://crowfield.asablo.jp/blog/2022/05/03/9487302/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。