「ある船頭の話」を観る2022年08月31日 22:42

 「ある船頭の話」を観る。2019年の日本映画。監督はオダギリ・ジョー。

 冒頭から、これは日本映画なのかと驚かされる。もちろん舞台は日本、それも東北から北陸の川。時代もおそらく戦前・明治大正から昭和初期といったところなのだが、まず映像が違う。日本映画のイメージとして、湿度のある、どちらかといえばウェットな映像ではない。どちらかといえばドライ、というより硬質な美しさ。こういう映像は日本映画ではあまり見ない。だが、好みだ。カメラマンはクリストファー・ドイル。なるほど、日本人の暗黙のうちのお約束を外して見たときの美しさとはこういうものなのかもしれない。

 音楽はティグラン・ハマシアン。ジャズ系といっていいのだろうか、注目のピアニストだが、これもいい。ねっとりとした情緒に訴えるのではなく、静かに、硬質に、しかし優しい音楽が映像とマッチしている。

 そして構図。冒頭からしばらくは、人間は二の次。川の様子のほんの片隅にしか人間は映し出されない。主役は川だと言わんばかりの構図がまた素晴らしい。

 榎本明の演じる船頭も、過去を抱え、隠し、地道に無欲に生きる船頭として重みがある。どうやら過去になにか(それもおそらくは暴力的な経験)を抱えているらしいが、作中では明らかにされない。そしてそんな船頭がひょんなことからすくい上げる少女。不思議な服を着て、不思議な存在である。川の中で彼女が泳ぐ姿は明らかに人外の存在と言っていいだろう。彼女も過去に何らかのものを背負っているが、これも明確には語られない。

 川の船頭は村の人を載せて川を渡らせる。金が儲かるわけでもない。そして上流には大きな橋が建設中。この橋ができれば、渡し船はおそらく忘れられてしまう。それでも船頭はそれを受け入れながら、毎日船を漕ぐ。

 ミニマルな舞台(ほとんど川の両岸を行き来するだけ)で、大きな事件が起こるわけでもない。静謐に、時と時代の流れに押し流されていく船頭の姿が描かれていく。榎本とオダギリの間に緊張があったとの情報もあるが、少なくともその緊張はこの作品ではプラスに働いている。オダギリの監督も脚本も、決して俳優の片手間ではない。誠実さと真摯さがひしひしと伝わってくる。

 台詞回しのボキャブラリーが高尚すぎると感じる点もあるが、これも船頭の過去が語られていない以上、観る側の補完も可能だし、貧しい地方の庶民を現代のボキャ貧と同じレベルで受け取るのも危険だろう。リアリズムというより、マジックリアリズムといった雰囲気の部分もある。むしろこれも日本文学の中に厳然と受け継がれている幻想文学の流れを思わせる(お偉い学者サマが作った学校文学史では、幻想文学を評価軸に入れ込むことがおできにならない貧しい学者サマのおかげで、こういう大事な流れが排除されている)。ちょっとグロンギ族のイメージを連想してしまうのは、クウガを見ていたこちらの先入観かもしれない。

 監督を色眼鏡で見てあら捜し的に鑑賞するにはあまりにもったいない。削ぎ落とされた厳しさと鋭さに裏打ちされた張り詰めるような美しさと、人と自然の在りようを象徴するような映像、そして金と便利さに溺れる人の貧しさ、浅ましさ、愚かさを、淡々と描いている。字幕まみれのバラエティや子供だましのアイドル映画ではない日本映画を久しぶりに見たような気がする。

 こういう作品、大好物である。