自己中心的特権意識2022年09月23日 09:16

 同志社大のアメフト部員の破廉恥極まりない事件を受けて、同志社大の担当者は「逮捕された学生に自己中心的な特権意識があったと思う。大学側の対応が不十分だった」と語ったという。

 この問題はどうやら「運動部員」たちの間でも問題とされているようだが、本当にそれでいいのか。

 いろいろと問題が取り沙汰されている「部活動」だが、「自己中心的特権階級」が運動部だけの専売特許とは思えない。それは、一運動部活動に過ぎない「野球」とやらいう競技の年2回の全国大会の会場となる「甲子園」という固有名詞が、いつの間にやら様々な部活動の全国大会のシンボル呼称となっていることからも伺える。(マスコミも流石に芸がないと考えたのか、最近は「花園」もたまに聞く)

 全国大会出場部活動が文化系・運動系を含めて「学校のセールスポイント」となっていることも元凶の一つだろう。部活動だけで卒業できるルールは文科省も認めていない。いわば「おまけ」的(と言って怒る人がいるなら、「オプション」と言い換えよう)活動がむやみに重視されている現状を見れば、「特権階級意識(俺が頑張ったから、学校の株があがってるんだぞ!)」の一つも生まれようというものだ。だが、オプションで志願者を勧誘するのは、某大臣の言葉を借りればまさに「邪道」である。「邪道」にろくな結果は伴わない。「貧すれば鈍する」である。

 部活動の問題を取り上げるマスコミが、その裏でそのシンボルとでも言っていい競技の全国大会に深く関与していたり、部活動をニュースソースにして視聴率を稼ごう(つまりは金を儲けよう)としたりしているのだから、末期的症状である。マスコミに自浄の意識はあるのだろうか。

 部活動は「遊び」である。優先順位は絶対に1位になってはならない。そして、「遊び」は、だからこそ重要なのだ。2位以下の存在がなければ、1位も消え失せ、人の生活は閉塞し、息が詰まってしまう。より良く生きるためには絶対に「遊び」は必要だ。「遊び」を見下し、効率ばかりを追い求める、貧しさの極みにあるような視点が、「遊び」を「聖なる活動」へと祭り上げようとする歪んだ意識を生み、その歪みの上に権力と金権、暴力と支配が生まれる。スポーツ界がその悪弊にまみれているのは昨今の某国際大運動会絡みの騒動を待つまでもなくわかりきっている。だが、文化系も映画界の問題や芸能・音楽界の悪弊を見ればまた同じ穴の狢だ。

 自己中心的特権意識は、恣意的権力の根底となる。遊びの世界のうちに芽を摘まないと、どこかの国の為政者のように、愛国心という名の国粋主義的かつ誇大妄想的ノスタルジーを振りかざし、他国民と自国民を見境なく殺し始めてしまう。そしてそれは他人事ではない。