戦争について考える2023年08月09日 15:29

 この国で8月は戦争について考える時期だ。

 戦争にはいろんな理屈がへばりついて、当事者たちの正当性を立証しようとする。正義のため、国家のため、市民の安全のため…まあ、いろいろだ。

 戦争は相手がいないとできないし、逆に自分が嫌でも相手が仕掛ければしないわけにはいかなくなる。喧嘩を売るのは論外だが、売られた喧嘩も買わなければならなくなることが多い。

 戦争では自分を正当化するために、大なり小なり必ず情報が操作される。

 そして、戦場では机上の理論やモラルなど通用しない。戦場では生きるか死ぬか、殺すか殺されるかしかない。お互いに共通の価値観で厭戦気運で戦うなどという理想的な戦場など、まずありえない。人間が多ければそれぞれの欲望が渦巻き、殺人というタブーを国家が取り外してしまえば(そうしないと戦争は遂行できない)、もうモラルにも歯止めが聞かない。自分はモラルを持って戦争したと言ったところで、敵も味方も一人ではありえない。モラルの崩壊は一人でも起こせば雪崩式に起きる。

 かくして、戦争の本質は破壊・殺戮・略奪・陵辱以外にはないということになる。

 こんなもの、やっていいわけがない。仕掛けるのは論外。仕掛けられたらいかに早急にやめるかを必死になって考えなければならない。とはいえ、仕掛けた側がやめたくないと言えばどうしようもないことも事実。かくして戦争の泥沼化は人間性の崩壊と直結する。

 相手を叩きのめしたいというのは、相手が怖くて仕方がないが、それを認めるのが嫌だというときに顕著に起きる反応ではないか。相手が怖いのは、相手を理解する努力を怠るか、理解する能力に欠けているかのいずれかだろう。相手を理解するということは、学ぶこと。自分を変えること。コンサバティブなスタンスで自分の保身を考えるようでは、恐怖を克服できない。自分の権力が崩壊するのが怖くて仕方がない連中はたくさん世界にいるようだ(たいていそういった場合、先代の権力者は生命の危険にさらされていることが多い)。このへんは国家間の問題に限らない。家庭に居場所がなくなって、仕事にかまけて家庭での日常生活スキルが皆無のまま、空虚なプライドにしがみついてカスハラに走るオヤジなどもこの一派だ。こういう連中に甘言を弄して取り入り、集票するような政治家が現れれば、恐ろしいことこの上ない。こういう風潮が広く広まれば、戦争への道はぐっと近づいてくる。

 死ぬまで学ぶ。他者を理解する努力を惜しまない。変化に背を向けて先例主義に安住しない。一人ひとりのこの心がけが、戦争をなくす小さな、小さな一歩になるのではないか。