「精神医療の現実」を読む2023年04月12日 22:23

 「精神医療の現実」を読む。岩波明著、角川新書。

 精神医学に関する言葉がマスコミや文学によって誤った形で流布するようになって久しい。また、精神医学自体も様々に変化している発展中の医学ということもあって、人口に膾炙した言葉が時代遅れになったり、古い用語が語弊のある表現となってしまっていたりと、誤解が温存されてしまう危険性もあるように思える。古くは「ロマンティックな狂気は存在するか」(1993年)で、文学における「狂気」がいかに無理解な使われ方をしているかが指摘されていた。

 この本では「脳科学」というものが実はかなり曖昧なものであることが触れられている。確かに「脳科学」を専攻とする学部・学科は存在していない。だから「脳科学」は怪しいというのはやや先走りの感もあるが、いずれにしても体型付けられた科学になりえていないということは確かだ。「ゲーム脳」「スマホ脳」などというトンデモ科学や、携帯を使うと電波で脳が破壊されるというまことしやかな都市伝説も、まことしやかに「脳科学」というラベルを貼ってしまえば広まってしまう。冷静に考えればおかしいことなのだが、「科学」という言葉が無意識のうちに権威付けとして機能してしまうようだ。「ゲーム脳」があるのなら、「パチンコ脳」がないのはなぜか。視覚情報の目まぐるしさは似たりよったりである。「スマホ脳」もまた然り。頭の近くの電波が悪いというのなら、20世紀以降電波まみれのこの世界に住む人類は、世代を追うごとに大なり小なり脳容量が減少していくはずである。

 他にも「アダルト・チルドレン」や最近は聞かなくなった「新型うつ病」、乱用される「PTSD」などの言葉についてもその曖昧さや誤用についての指摘がなされている。完全否定ではなく、是々非々の立場での主張には信頼性がある。

 著者のスタンスから、過去の精神医療に対する否定的な言説に強めの表現があるのは当然だろう。それを割り引いても、冷静に考えれば著者の指摘した精神医療・精神医学とその受容のあり方が孕む問題点はもっともなものだ。途上の学問分野である精神医学には、我々も不断の学習が求められている。

「手の倫理」を読む2023年04月10日 22:08

 「手の倫理」を読む。著者は伊藤亜紗。

 「ふれる」と「さわる」。確かに語感が違う。「ふれる」には好意的で肯定的な意味合いを感じ、「さわる」にはどことなくよそよそしく、無神経な感じがある。

 この語感の違いを手がかりに、身体接触と相互の人格の乗り入れとの関連を述べたのがこの本。「ふれる」行為は接触により互いの距離がゼロになるのではなく、マイナスとなる、つまり触れ合うと互いの存在が相互に自分の内部に入り込んでくるという考え方は面白い。

 後半は著者自身の体験からくるエピソードの比重が大きくなるが、それでもうなずける一般化がなされているように読める。

 ただ、きっかけが日本語の「ふれる」「さわる」の差異から来ているところが、著者の論の一般化をそのまま受け入れることを躊躇させる。接触を表す単語がどの言語でも日本語同様に差異を持っているのかが本文には触れられていない。現状ではあくまで「日本語」を思考の基盤に持っていることが前提の論である。妙に納得してしまうと、人類普遍の感覚なのかどうかを検証し忘れてしまいそうだが、そこは注意が必要だ。

 あくまで、日本語圏における、日本語の語彙の共通認識がある社会の中での仮説というのが現在のこの著作の位置だろう。他の言語ではもっと別の考え方や、もっとラフな考え方、あるいはもっと精緻な考え方もある可能性がある。

 真面目に捉えすぎず、あくまで「へぇ」レベルでとどめておくのが現在では妥当な内容だ。間違っても「こういう認識が持てる日本語・日本人は他の文化より優れている」などというみっともない誤解はすべきではない。

「レコード芸術」休刊2023年04月03日 21:38

 「レコード芸術」が7月で休刊となる。

 確かに、ここ数年そういう予感はあった。アカデミックな読み物や海外からの寄稿がなくなって久しく、名物連載も多く終わり、広告も激減、そしてなにより…薄くなった。

 海外版と国内盤に別れたレコード評も現実とはズレ始めていたし、もはやレコード(というよりCDだ)を購入する術は地方にはほぼ皆無、大都市圏でも減少中。実際に取り上げられたCDをオンラインで購入しようとしても、サブスクの配信のみということも少なくなかった。

 配信についても記事はわずかながらあったが、iTuneに偏った記事で、少なくともiTuneを使わない私にはほぼ無意味。オーディオ機器の記事も、だんだん現実味のない価格の製品ばかりが取り上げられるようになり、読者にとっては雲の上の仙人の話のようにもなっていった。今の給与体系や経済状況で一台100万円を超えた機械を複数購入してやっと音楽が聴けるようなシステムを購入できる(あるいは購入の希望が現実味をわずかでも持てる)層以外には魅力ある記事とは言えない(第一、すでにハイレゾ音源をわずか数万円でこの雑誌が紹介する製品とさほど遜色ないレベルで再生できるプレーヤーが存在することはネット上で知れ渡っている)。

 なにより「クラシック音楽」が教養ではなく、単なる消費財と化してしまったこと、オーケストラが自前で配信を始め、音源も販売し始めたことが、この雑誌のスタンスを大きく崩す原因ともなった。サブスクでどこにいても安価にお試し視聴ができて、オーケストラやミュージシャンが直接自分たちの音楽を発信する時代に、パッケージ音楽のみに絞った雑誌の存在はやはりニーズに合わなくなっているのだろう。

 CDやアナログのジャケットに取り上げられた名画と音楽との関連に注目した連載や、ウィーンでの生活を扱ったエッセイなど、面白い連載も多かった。寂しいが、時代の変化に対応できなかったということだろう。

朝の読書とタイパ2023年03月17日 20:41

 朝の読書というやつがある。学校で毎朝本を読ませるというやつだ。悪いことではないのだが、これにカネという大人の事情が絡むととたんに変な話が出てくる。

 読書の時間は朝の10分程度らしい。当然、普通の本なら読み終わるはずもない。後を引くし、続きが気になるのは当然だし、そうならないような本など、読むのが苦痛にしかならないだろう。要するにその読者にとって「つまらない本」だ。だが、それだとその後の活動に身が入らなくて困ると考える学校や教員もいるらしい。

 そこに目をつけた出版社が、朝の読書用の、短時間で読み切れる、言ってしまえばショートショート集を売り出した。学校で読むのだからその内容も当然お行儀のよい「安心できる」内容とくる。毎日読み切りで子供もスッキリ朝の読書が終われ、教員も内容については安心という寸法だ。これが結構売れているし、学校単位でも購入しているらしい。出版社からすればウハウハものだ。おまけに文部科学省が朝の読書を推進するスポンサーになってくれているのだから、これほど美味しい商売はない。

 つまり、子供に学校で毎朝、短時間で完結する、安心できるお話を読んでスッキリする癖をつけるわけだ。読み終われば話に一区切りつけて、次の活動に切り替えができる。To be continueの否定、ショートタイムでThe Endは大歓迎。出版社も収益確保、ウィンウィンである。

 学校の授業で長編小説を扱うことなどありえない。子供は学校で短く手軽に短時間で読める「安心」で「楽しい」読書(朝の読書は世知辛い学習効果を狙うと失敗するので、遊び読書の延長)と、たいして長くもなく、いかにも大人が好みそうな答えを言っていれば○が貰えそうな「お話」を(あまり楽しくなく)読んでいる。

 これでは長いスパンで描かれた小説にトライする子供が育つとは思えない。長いお話に付き合うのはうんざりだ。手っ取り早く、早くオチを知りたいと考えるのも無理はない。

 文部科学省が2001年から朝の読書運動を取り上げてから盛んになったという。それから22年。当時の小学生は今や28歳〜34歳。昨今の時短視聴、タイパ重視の世代との重複は単なる偶然なのだろうか。

また一人…2023年03月14日 22:41

 ここ最近、各界の毎日のようにビッグネームがこの世を去っているような気がする。

 今度は大江健三郎が逝去。リアルと奇想の狭間をゆくような小説や、明らかにSFのスタイルの小説だけではなく、新書でのルポ、社会活動、ご子息との日々など、多岐にわたる活躍だった。

 ノーベル文学賞の受賞でも話題となったが、当時、いや、今でもその真価をきちんと捉えた日本の読者がどれだけいるか。当時溢れかえった解釈本の怪しげで低次元だったことも思い出される。

 いずれにせよ、ご冥福をお祈りする。