「郵便配達は二度ベルを鳴らす(1943)を観る2023年03月31日 20:50

 「郵便配達は二度ベルを鳴らす」を観る。何度も映画化された作品だが、今回のものは1943年、イタリア映画。監督はルキノ・ヴィスコンティ。ヴィスコンティの最初の長編映画だ。

 原作者に無断で撮ったことが災いして、長くお蔵入りの幻の作品となっていたが、70年代には上映されるようになった。原題は「ossessione」イタリア語で「妄執」の意味らしい。

 ストーリーは原作をほぼ忠実になぞっているが、舞台はイタリア。撮影当時のイタリアはファシズム下。イタリアのムッソリーニが率いたファシスト党がファシズムの語源なのだから、まさに本家本元の支配下である。そんな社会で不道徳極まりない「不倫」とそれが原因の「殺人」を描くのはかなり危険なことだっただろう。おまけに登場人物に「スペイン人」とくれば、当時のイタリアではかなり過激な内容と言える。

 主人公は根無し草の放浪者、生きるために不本意な結婚をしながら、夫に愛想を尽かしている女。二人はひと目で惹かれ合って深い仲に…と、当時のことなので性的な表現はほのめかし程度。だが最初の謀殺シーンも省略(ラストシーンの方に予算をかけて、こちらには資金が足りなかったのか)されているので、少々主人公に感情移入がしづらいのが惜しい。

 ラスト近く、唐突に少女が登場する。意味深な少女なのだが、これもまた分かりづらい。その後、少女は洗濯をしているのだが、この子がいつ、どうしてここにいるのかの説明が判然としないのも、違和感を感じるところ。

 ただ、追い詰められ、疑心暗鬼になっていく主人公二人の心理はよく伝わってくる。悪党のようで実はヘタレな男と、多情な悪女のようで実は一途な女の悲劇を、シビアに描いている。

「ジョン・ウィック:パラベラム」を観る2023年03月13日 22:43

 「ジョン・ウィック:パラベラム」を観る。ジョン・ウィックシリーズの第3作。チャド・スタエルスキ監督、キアヌ・リーヴス主演は変わらず。ストーリーも前作からほぼ連続している。

 前作で組織の掟を破ったジョン・ウィックは1時間の猶予の後組織から追放される。1400万ドルの賞金を懸けられた彼を、ニューヨーク中の殺し屋がおそう。中には抜け駆けを狙って追放時刻前に襲ってくる殺し屋も。そんな殺し屋を返り討ちにしながら、傷だらけで逃げるジョン。やがてかつてのしがらみを頼りにアメリカを脱出するが、組織の上部、主席連合は彼を許さない。また、ジョンに温情的な行動を取った組織の者を主席連合は粛清していく。

 殺戮に次ぐ殺戮だが、ここまで来るともう観る側も麻痺してしまう。もっとも「平家」という屋号の寿司バーはかなり日本人の目から見て苦しいか。寿司屋でふぐ刺し(ご丁寧に細ねぎを巻いて一切れ)もどうかと思うし、音楽がきゃりーぱみゅぱみゅのにんじゃりばんばんというのも笑ってしまう。日本人らしい板前殺し屋は妙な日本語を口走るし、なぜかジョンとの戦いはアクリルジャングル。ブルース・リーの鏡の間の戦いが下敷きなのは言うまでもない。

 裏切り、意外な展開、さり気なく前作、前前作から引っ張る笑いもファンサービスか。そしてラストシーン。当然次回作に続くわけだ。昔の映画の連続活劇のスタイルを受け継いでいるのも面白い。

「私はあなたのニグロではない」を観る2023年03月05日 20:35

「私はあなたのニグロではない」を観る。2016年のアメリカのドキュメンタリー映画。作品にも登場するアメリカの黒人作家、ジェイムズ・ボールドウィンの未完の原稿をもとに、ラウル・ペック監督が制作した作品。

 公民権運動のうねりの中で、ボールドウィンの友人だったマルコム・X、マーティン・ルーサー・キング、メドガー・エバースの三人についての回想が語られる。三人とも暗殺され、ボールドウィンはその知らせを聞き、怒り、失望する。

 作中、ボールドウィンがTVのインタビューで語る話は衝撃的だ。アメリカでは黒人であるだけですでに生命の危険がつきまとう。嘘だと思うなら警官の顔を見ればいいと彼は言う。ヨーロッパでは少なくとも黒人であることは生命の危険を意味しないとも。黒人ジャズミュージシャンが多くヨーロッパに拠点を移し、そこでのびのびと活動し、それがヨーロッパへのジャズの浸透につながったのだが、彼らがヨーロッパに向かったのはただ単に活動しやすかったからではなく、こういう背景があったのかもしれない。日本人ジャズピアニストがコロナ禍でのアジア系差別の結果、アメリカで襲われ、再起を危ぶまれるほどの大怪我を負わされた事件も頭をよぎる。

 黒人を扱った映画についてもなかなか辛辣。だが、「夜の大捜査線」のラストシーンで、白人と黒人が互いに「受容」したという発言は一筋の光明かもしれない。

 ボールドウィンは1987年にパリで死去。もちろんBLMも知らない。35年後のアメリカは、いまだにボールドウィンの指摘した、「黒人であるだけで生命の危険にさらされる」現状から変わりきっていない。そして世界もまた同様だ。「受容」がどうして出来ないものか。互いに学び合うことがそんなに難しいことなのか。

「カフカ「変身」」を観る2023年03月03日 22:35

 「カフカ「変身」」を観る。2019年イギリス映画。監督、脚本はクリス・スワントン。

 おなじみのカフカの「変身」(と言っても、名作扱いなので敷居が高くて読んでいない人も多いのでは?)。映画は原作をほぼそのまま映像化している。誠実な作りの映画と言える。

 だが、問題は主人公、グレゴール・ザムザが変身した「虫」。ポスター画像ではどう見ても巨大複眼のハエっぽい造形にしか見えないのだが、これが偽りあり。映像で実際に出てくるのは、薄汚れた灰色の昆虫。それも目はぱっちりした単眼。マンガのような愛嬌のある目がクリクリ。感情移入させたい気持ちはわかるが、これではこの作品には逆効果。

 この虫さえ原作で言う「不快で嫌悪の対象となる虫」に完全に造形されていたら…一歩間違えればモンスター映画になるのかもしれないが…

「ブルークリスマス」を観る2023年03月02日 21:18

 「ブルークリスマス」を観る。1978年の日本映画。監督は岡本喜八、脚本は倉本聰。主演は仲代達也、勝野洋、竹下景子。

 ワンアイディアのSFネタ(この場合はScience FictionというよりはScience Fantasyであろう)をメタファーとして使った政治ドラマである。異質なものに対する恐怖、差別、排斥、その正当化としての情報操作による恐怖と憎悪の増幅が描かれる。善悪二元論や人権の否定(敵は人間ではないから惨殺しても構わないという思考法は時と場所を選ばず、戦争という狂気を正当化する定番の理屈)が世界レベルの政治で仕組まれる恐怖を描いた映画だ。今、この世界情勢でこの映画を作ることができるかといえば、忖度(=脅迫)政治が蔓延したこの国で、倉本聰と岡本喜八の両者が健在であっても難しいだろう。それとも、「SF」は子供だましのくだらないものだと世論操作して黙殺するか、「難解で意味がわからない」と排除するか。

 とはいえ、映画としてはいささか微妙な出来だ。主に2つのパートが絡み合うストーリーなのだが、その絡み合いがちっとも有機的になっていない。複数のストーリーが絡み合いながら有機的に全体を組み上げていく今のSF小説に比べると、ストーリーテリングの甘さが目立つ。仲代達也演じるジャーナリストも背景設定が薄く、脚本上でリアルなキャラクターとしての説得力に欠けている。仲代の演技によってかろうじて生身のキャラクターとなっているレベルだ。勝野洋の軍人は朴訥を通り越して異様。好きになった理容師のいる理髪店にスポーツ刈りの頭で3日と開けず通うなど、もはやストーカーである。そんな男に惹かれる竹下景子演じる理容師という設定もリアリティがない。みんな単なる記号である。仲代の演技力と、竹下の美貌と、勝野の「太陽にほえろ」での人気でかろうじて押し切ったと言わざるを得ない。もちろん彼らを支える映像を生み出した岡本喜八の力も重要だ。

 倉本の脚本が残念ながら「意あって言葉足らず」の紀貫之的なものだったと言わざるを得ない。120分超えの尺でもこの脚本、設定は描ききれていない。TVで2クールぐらいのスケールでないと(今の視聴者は1クールぐらいにしないと辛抱できないだろうが)難しいのではないか。SFとしても、ヘモグロビンがヘモシアニンに変化するメカニズムを描かないのはともかく、その変化によって性格まで変化するという設定も説得力に欠ける。こういった部分の補強はSFのキモなのだが、そういうセンスはこの作品にはない。日本人がよりどころである日本そのものを喪失するというメタファーに徹底的な科学的考証をつぎ込んでリアリティを高め、そのことによって、作品の出来の良し悪しは別としても、何度も多角的な視点でリメイクされる「日本沈没」とは対照的だ。

 映画としては今ひとつ、だがテーマは、むしろ現代の世界に対して大きなインパクトを持ったものになっている。いろんな意味で「もったいない」作品だ。