女性の社会進出2014年10月03日 22:00

 女性の社会進出、社会参画が叫ばれている。

 決して悪いことではないが、その裏に経済政策が見え隠れしているのがどうも気になる。

 経済が「経世済民」の略であることは、今となってはあまり知られていないようだ。経済=お金というのが世間での一般的認識だろう。つまり、もはや経済は「この世を生きる人々を救済するための方策」ではなく、「いかに金まわりを良くするか」と捉えられていると考えられる。

 金回りを良くするためには、金を使ってもらわなければならない。そのためには、使う金を稼いでもらわなければならない。そして、金を稼ぐ人が増えれば増えるほど、税金を取り立てることができる人口が増え、税収が増加し、赤字まみれの我が国の金回りも良くなって万々歳。そう言ったそろばん勘定があることは、誰も否定できないだろう。

 そのためには、金を稼いでいない層がまだまだ多い女性に、稼いでもらって、税金を払ってもらいたい。理屈の上では至極まっとうである。

 だからといって、鵜呑みにはできない。人間の生活は、全てが金を稼ぐことのできるものばかりで構成されるわけでは決してないからだ。

 親子が愛情をわかちあいながら触れ合うことに、金は必要不可欠なものではない。炊事・洗濯・掃除といった家事労働そのものに賃金を払うシステムは存在しない。これらの労働は無給労働、経済的にはただ働きであり、もっとも非効率的な労働となる。育児・出産となれば、経済生活からすれば無視してしまいたいロスとみなされていることは、実際に女性の就労に対する問題点を考えれば明白な事実だ。

 人が生きものとして存続し、当たり前の家族生活を営むことの価値は、金という実体のない価値基準では評価しきれない。だからこそ無給となる。というよりも、金には人が生きるために最低限行わなければならない必須労働を評価する能力がないのだ。

 能力がない物差しを人の世界に当てはめると、ろくな事にはならない。財界人の基本的な思想は「働かざるもの食うべからず」であろうが、「食うべからず」とはつまり、「死ね」ということと同義だ。つまり「働かないものは死ね」という論理である。他人に「死ね」などと宣言できる人間を容認することは、殺人の容認と同じであり、それはつまり「戦争」状態と同じである。「三方良し」の商業ポリシーでは決してありあえない考え方だろう。

 「働かない」「働けない」の区別をつけることもまた困難だ。恣意的にいくらでも操作できる。バリアフリーを推進すると、その裏に「環境が整ったのだから、働けないはずはない。働かないのが悪いのだから、自己責任で『食うべからず=死ね』」という論理まで生まれてくる危険性がある。これではナチスの優性思想と五十歩百歩の論理だ。

 専業主婦(夫)がそんなに悪いのだろうか。ハウスキーピングに日々勤しみ、家族の栄養・健康管理に気を配り、子どもたちに愛情と家庭教育を施し、経済活動に励む配偶者を後方支援し、家庭の経済状況を管理する無給の労働者。これだけでもいっぱいいっぱいだという人はいるに違いない。これだけの仕事をアウトソーシングすると、相当の人件費が発生するはずだ。それを無給労働(それとも、扶養控除が賃金だというのだろうか…どう考えても一年間人一人雇用できるほどの金額ではない)に依存しているのだから、決して他人が偉そうな口を叩く筋合いはない。働く女性からは「自分たちだって仕事は大変なのだから、甘えないで欲しい」という声が上がるが、「仕事は大変」であることのほうが問題だろう。人としての生活を搾取しておいて、仕事ができないのは甘えだというのは暴論だ。職員に家庭生活を確保してやる能力もないくせに経営者でございとあぐらをかくほうがよっぽど甘えているし、自分が大変だから他人も大変な目に会うのは当然だというのなら、それは単なる嫉妬と報復心理に過ぎない。子育てや妊娠・出産を「迷惑」と捉える経営者が多い現状では、少子高齢化対策など、単なる画餅に過ぎない。

 「働かないと悪い」のではなく、「金を稼がないのが悪い」というのが経済の善悪の基準と言っていいだろう。そして、その矛盾に気づいているからこそ、世の経済学者は「モラル」を求め、「本当の豊かさ」を求めて研究を続けている。それはつまり「経済」は「金儲け」ではなく、「経世済民」の略であることに立ち返っているからだろう。

 政治は、マスコミは、経済学のパラダイムシフトに追随して行けているのだろうか。「経世搾民」、つまり「経搾」では、女性の社会進出など、とても危なくて歓迎できない。

鬼神&Way out West2014年10月05日 16:33

 プリアンプの調子が再び不調なので、大々的に改修も考えている。代わりに、ずいぶん昔に作った、入出力とも1系統しかないが、トグルスイッチ4つで構成したパッシブアッテネータを接続したメインシステムに変更。

 久々に大きめの音量でCDを聴くことができた。

 「鬼神―和田薫の音楽」は、伊福部昭の弟子格で、アニメ・映画音楽などでも活躍する和田薫の作品を、2009年8月にドイツのケルンでライブ録音したもの。和太鼓のパワフルな響きや、オーケストラと和楽器の融合が聴きものだ。伊福部譲りのオスティナートやアッチェレランドの盛り上げ方、プリミティブでバーバリズムにあふれたリズム、躍動感はさすが。現地ドイツでのアニメの高視聴率を背景に、現地でリクエストされたという「犬夜叉幻想」と、「和太鼓とオーケストラのための協奏的断章”鬼神”」(これは世界初演)は、作曲者自身の指揮で収録。このアルバムの白眉である。「犬夜叉幻想」では、アニメでお馴染みのあのメインテーマが現れるが、完全な形で現れるのはバイオリンソロでの女性的な演奏、そののちフルオーケストラでの男性的な演奏が登場する。母性原理(人間の母親や女性への愛情)から父性原理(父親である大妖怪や、そのバリエーションである兄への対抗)への進行といった原作の構造を象徴しているようで興味深い。

 「Way out West」は言わずと知れたソニー・ロリンズの名盤。青筋立てて吹きまくる熱演というより、陽気なリズムに載せて、肩の力を抜きながら、リラックスして演奏している感じを受ける。もちろん手抜き演奏ではありえない。本当にノッているのがよく伝わってくるアルバムだ。サックスが左に、ベースとドラムスが右に、はっきり分離してきこえてくるのは、この時代のステレオ録音ではありがちで、今の耳ではやや違和感もあるが、演奏の前では些細なこと。面白いのは、サックスの向きが変わるのがはっきりわかる点。朝顔を上下左右に振って演奏しているのがよくわかる。

 どちらのアルバムも以前購入したものだが、久しぶりに聴いて、また新たな発見があった。これだから安易にCDを売り飛ばすのがためらわれてしまう。

ノーベル物理学賞2014年10月09日 22:02

 青色LEDの研究で日本人3名がノーベル物理学賞を受賞した。

 誰もが当然と思える成果だと言える。

 20世紀中の実用化は不可能と言われた研究に打ち込むことができたのは、本当に素晴らしいことだ。

 国公立大学が独立行政法人となり、短期に成果をあげないと補助金を打ち切られ、産学協同によって経済波及効果の高い研究ばかりが求められるようになった現在の大学では、もうこのような長期に渡る研究が推進される可能性は低いだろう。

 これまでの学問の府での貯金が、果たしていつまで保つのだろうか。

 教育は国家百年の計である。
 今や経済は1企業1ヶ月の計である。

 今の世間を支配しているのは、教育だろうか、経済だろうか。

いのちの感覚2014年10月12日 00:30

 人が痛みを感じることを、人の命が奪われることを、私たちは記号としてしか受け止められなくなっているのかも知れない。

 人は病院で美しく生まれ、病院で美しく死ぬ。

 災害や事故で非業の最期をとげた人を見ることはまずない。そう言った人たちはモザイクやブルーシートの向こうにいる。

 確かにいるのだが、すでに私たちはその存在を想像するに足る経験を持っていない。経験がないものを想像するのは、無から何かを生み出せというのと同じで、無理な注文だ。

 リアルな世界ですらもはや我々の周囲に「死」は希薄な存在となっている。

 「イスラム国」へ行って、気が済むまで自分を試してみるために、戦闘員になろうとした若者がいる。

 戦闘員の業務内容はただひとつ、「殺人」だ。

 自分の持った銃が実弾を撃った時の熱や振動を、その火線の先に生きた人間がいることを、そしてその人が非業の最期を遂げる姿を、その返り血や視線や表情を、その若者はどれほど想像できていたのだろうか。それとも「自己実現」や「生きがい」「やりがい」「自分探し」といった、昨今はやりのお題目の実現の前では、他人の生死などさしたる価値もないと思っていたのだろうか。

 われわれは滅菌消毒して小奇麗になった分、リアリティのかけらもない甘っちょろい「戦争」や「生死」を世間にばら撒いていたのではないだろうか。「よい子」のための情報にオミットされてしまう、こうした残酷さ、厳しさを正しく身体感覚の一部となるまでたたき込むことも、必要なのではないだろうか。

 「自分の気が済むまで」戦闘員をして、「すっきり」したら帰国するという趣旨の発言もあったようだ。「自分の気が済むまで」見ず知らずの人を殺害して「すっきり」したら帰国すると言っていることに気づかなかったのか、それとも本気でそう言いたかったのか…どちらにしても、どうしても私には正気の沙汰に思えない。

volumioのアップデート2014年10月13日 21:24

 しばらく放置していたRaspberry Pi 上の volumio だが、例のLinuxのbashのバグが気になったので、アップデートをかけてみた。

 Ubuntu端末から、ネットワークに有線LANで接続して起動したRaspberry Pi に ssh でログインする。

sudo ssh (Raspberry Pi のIPアドレス)

 まず、Ubuntu のパスワードを聞かれ、その後、volumio のルートパス(デフォルトは volumio )を聞かれるので、入力。

 無事ログインできたら、次のコマンドでアップデート。

apt-get update
apt-get upgrade

 真っ先にアップデートで上がってきたのはやっぱり bash だった。迷わずアップデート。数分程度時間がかかる。

 そのあと、もうひとつ。

apt-get install rpi-update

 ところが、これがうまくいかなかった。メッセージを見ると(もちろん英文)

binutils がインストールされていないので、これを先にインストールしないとだめだよ!次のコマンドを試してね!

apt-get install binutils

とのこと。そのとおりコマンド入力すると、どうやらインストールされているのは、 volumio そのものではなく、 Raspberry Pi のハードウェアを制御するプログラムらしい。

 無事インストールが終わったので、再度

apt-get install rpi-update

を実行。今度は成功。そして、いまさらながら気づいたことが…

rpi-update の "rpi" とは…

"R"aspberry "Pi" の事だったのか!

 すべて終了後

reboot

これでアップデート終了。volumioの起動も問題なし。