「パトリオット・デイ」鑑賞2017年06月13日 22:12

 「パトリオット・デイ」を鑑賞。

 パトリオット・デイ(愛国者の日)に行われるボストン・マラソン。数年前、このマラソンの開催中に爆弾テロが発生した事件を映画化したもの。

 イスラムに対する配慮が全編ににじむ。犯人のイスラム勢力との関与という点も明確ではなく、単純にイスラムを悪者扱いしたくないという意思が強くうかがわれた。妥当なスタンスだと思う。

 むしろ被害者の側に寄り添い、その再起に視線をむけている。犯人を追い詰めていく展開は王道と言っていいだろう。激しい市内戦闘シーンなど、アクション的な見せ場もあり、生真面目一辺倒ではないのも、よくも悪くもハリウッド的だ。

 だが、事実を映画化したがために、煮え切らないところや、曖昧なままの部分も残されている。どこからか突然現れ、何者かも判然としないまま去っていく女性尋問官など、その代表格だろう。

 アメリカ国民はテロに屈しない。そしてその力と意思の根本は憎悪ではなく、愛である。そういうスタンスをストレートに伝えてくる。だが、そこで引っかかるのは作品ラストの実在の人物のインタビューで発言されている「自衛意識」の一言だ。銃撃と爆弾による市街戦の只中で、地域住民が警官に差し出すのは小さなハンマーだったり、FBIの狙撃班が配備されて来たのに、通常の拳銃のみの地元婦警が持ち場を譲らず居座ったり。あまりに現実性のない行動が気になった。「自衛」がこのような単なる短慮と愚昧で表象されているのであれば、この「自衛意識」そのものが、作品中で疑問視されていると受け取れる。配給はタカ派のCBSなのに。

 主人公は冒頭で、暴力的に被疑者の家のドアを蹴破り、膝を炒めてしまう。全編を通して脚を引きずりながら捜査にあたっている。そして終盤、不自然にも感じられる「愛が大事だ」との言葉。これも暴力の痛みと、それを乗り越えるための「博愛」という図式の表象なのだろう。

 映画としては手堅くまとまっている作品だが、少々説教臭さのようなものを感じてしまった。

とある国民的行事について2017年06月18日 23:35

 沖縄で、このシーズンに、とある国民的グループと称する集団が、なにやら野外イベントを企画していたらしい。

 当然、沖縄のこのシーズンは梅雨まっただ中。野外イベントの計画は言うまでもなく無謀だ。

 予想通り、野外イベントは開催不可能、総選挙と称する国民的人気投票が行われて、少なからぬ情報リソースがこの内容を報じていた。

 国民的グループに対する関心もなく、その人気投票の投票権ももたない私にとって、このグループのイベントや、だれが一番人気者なのかは彼岸の火事。どうなろうと知ったことではない。

 野外で国民的グループの国民的人気投票を行う土地がどんな気候かには、国民的な関心は向けられていなかったようだ。そのことを危惧していたという言説も述べられたそうだが、決行した以上、それはただの言い訳に過ぎない。そして、そのことを責める気も毛頭ない。

 「沖縄」に対する「国民的」関心の程度が知れたというだけだ。