「失われた週末」を観る2018年10月03日 05:54

 「失われた週末」を観る。

 現代なら麻薬中毒患者を取り上げているのだろうが、1945年制作のこの作品で取り上げられているのはアルコール依存症。

 自意識過剰だが現実生活ではどうしようもないビビリの小説家志望の男。30過ぎでも自活できず、兄に養ってもらう居候。そんな現実から逃げようとしたのか、酒に溺れ、入院経験まである。

 そんな男とひょんなことから出会った、タイム社に勤める女性。二人は恋仲になり、いっときアルコールを断つことができたが、彼女の両親といざ顔合わせの段になると、いつものビビリ癖。結局酒に手を出して、彼女にもアルコール依存症の過去がバレてしまう。

 ところが彼女は踏ん張って、なんとか男を更生させようと努力する。ラストの救いは、彼女あってのものだ。

 現実にはこんなに甘いハッピーエンドは来ないのだろうが、映画としてきちんと全てまとまっているので、白けた感じはしない。

 ただ、このラストを見ると、男の週末は結果的には「失われた」のではなく、「恵まれた」事になるのかもしれない。

月曜日2018年10月14日 23:05

 月曜日の早朝の男性の自殺率が高いらしい。

 かつては「サザエさんシンドローム」と呼ばれたり、「笑点ブルー」などと呼ばれたりした日曜夕方の憂鬱が爆発してしまうのだろうか。

 以前あるドクターから、「月曜日は休養十分で、一番気力が充実しているはずです」と言われたことがあるが、現実にはそうはいかないようだ。

 明日は月曜日。気負いすぎず、落ち込みすぎず、なすがままの自然体で乗り越えたいものだ。

大野和士指揮、バルセロナ交響楽団を聴く2018年10月15日 22:17

 NHK-FMでオンエアされた大野和士指揮のバルセロナ交響楽団演奏会ライブを聴く。

 最初はチャイコフスキーのバイオリン協奏曲。冒頭からビートの強いマッチョなリズム。クラシックというより、ロックのようなビート感が聞いている側のテンションを高めていく。バイオリンは最近の主流のやや細めの音。オケもバイオリンもインテンポで丁々発止。まるでスポーツを見ているかのような爽快感がある。明朗快活、健康そのもののチャイコフスキーだ。エンディングもケレン味とまではいかないまでも、聴く側のテンションをグイグイ引っ張っていく勢いが見事。

 だが、その反面、退廃や官能といったダークでアンニュイな表現は後退する。ダークサイドがないのは、大人の音楽としては少々物足りない。やんちゃな良い子のイケイケと言った感じが終始支配する。元気にリフレッシュしたいというニーズにはぴったりだ。夜よりは朝向きの演奏。

 後半はベートーベンの第3。チャイコフスキーのようなビート感に溢れる演奏を期待したが、少々肩すかし。チャイコフスキーのような気風のよい暴れっぷりは交代してしまった。若干アゴーギグを効かせながら、さらさらと流れていく第3。トスカニーニのような強烈なアタックや、フルトヴェングラのような壮大さ、ガーディナーなどの古楽器、原点回帰インテンポの過激さも知っている耳には、優等生的な演奏に聞こえるだろう。聴衆も同じ感覚だったのか、チャイコフスキーに比べて拍手のカロリー(今はジュールというべきか)も低め。ベートーベンにはもう少しロック、またはヘビメタ調のビートと切り込みで暴れて欲しかった。とはいえ、演奏は十分楽しめる。

 どちらかを選ぶとしたら、やはりチャイコフスキーだろう。暴れっぷりの爽快さを買う。

香港シンフォニエッタを聴く2018年10月17日 23:52

 NHK-FMで放送された、葉詠詩指揮、香港シンフォニエッタの演奏を聴く。

 最初の現代音楽「古い夢の終わりで」は、いかにも現代音楽といった感じの曲。緊張感のある演奏で、悪くなかった。

 その次のモーツァルト・バイオリン協奏曲第5番は、ソリストの軽やかさに対して、オケは古典的で重厚。なんとなく速度感の違いを感じてしまった。人時代前のモーツァルトを聞いた感じだ。

 メンデルスゾーンの第4番「イタリア」も、若々しさや切れ込みの鋭さというより、柔和な感じのほうが優先。

 全体的に古風な感じの演奏のように感じられた。古風な割に風格はまだ今ひとつ。軽さやスピード感がもう少し欲しかった。

メータとブニアティシヴィリのシューマンを聴く2018年10月18日 23:56

 NHK-FMでズービン・メータ指揮、カティア・ブニアティシヴィリをソロに迎えたシューマンのピアノ協奏曲を聞く。

 冒頭から超快速ですっ飛ばすと思えば、次にはぐっとテンポを落とすといった感じで、かなりアゴーギグを効かせた演奏。ライブならではの即興性が楽しい。どちらかといえばスポーツ感覚的な演奏で、盛り上がりには事欠かないが、ダークサイドの表現はあまり感じられない。

 今週のアジア系指揮者のライブには共通してどことなく明るさ、健全さが漂っているように感じた。若手や最近の演奏家はともかく、メータのようなテランでもそのような傾向にあるのは、なにか共通のものがあるように思える。もっともメータのシューマンの場合、ピアノのブニアティシュヴィリの切り込みに煽られた可能性はあるだろう。

 健全な演奏が続くと、どこかダークでドロドロとしてセクシーな演奏が聴きたくなるのは人情か。