「パフューム ある人殺しの物語」を観る2021年07月04日 16:35

「パフューム ある人殺しの物語」を観る。

2006年ドイツ・フランス・イタリア合作。トム・ティクヴァ監督作品。
原作はパトリック・ジュースキント著『香水 ある人殺しの物語』。

どことなく乾いたブラックユーモアを湛えた語りによって進行する、一種のトールテールといった趣の映画。「アメリ」も似たような語りの構造だった。

異常なほど鋭い嗅覚を持って生まれた主人公、グルヌイユの半生。彼が追い求めた「匂い」は特定の女性のみが持っている。それを求めたグルヌイユの常軌を逸した行動がサスペンスとなって作品の軸となっている。

グルヌイユが通り過ぎたあとは死。生まれた直後、生母は嬰児殺しの罪で処刑。孤児院の院長もグルヌイユが売り飛ばされた直後に殺害。革職人の親方もグルヌイユが転職すると事故死…ある意味疫病神のグルヌイユだが、死んだ方も自業自得。こういったあたりのブラックな因果応報はトールテールそのものだ。

自らが生み出した香水は、人間の愚かさ、醜さ、軽薄さをむき出しにしてしまう。グルヌイユは結局、人間に絶望してしまう。

いまならグルヌイユの秘密の香水など必要ない。金の匂い、権力の匂いで人間はいくらでも無様になり、卑屈になり、愚かになる。

ラスト近くの映像が日本公開のときにCMで流されて、エロ映画的なプレゼンテーションだったのを覚えているが、作品を見ればあのシーン、宗教権力や世俗権力、人間社会のモラルがいかに脆いものかを突きつけてくるシーンである。映画配給に携わる側の作品に対する見方、作品を人々に届けるスタンスもまた哀れ。

ファミリーで食事時に観る作品ではない。毒たっぷりの、しかしいい映画だ。中二病的エロ感性を卒業してから見て欲しい映画。

「ブルーノート・レコード ジャズを超えて」を観る2021年07月09日 17:37

 「ブルーノート・レコード ジャズを超えて」を観る。2019年のドキュメンタリー。

 ジャズを聴くとき、避けて通ることができないレコードレーベルが「ブルーノート」だ。モダンジャズの名盤を次々と発表し、アーティストを発掘し、特徴的なジャケットのビジュアルも含め、まさにジャズの顔として君臨したレーベル。ドイツからの移民青年二人のジャズ好きから立ち上がり、当時の常識を覆すようなアーティスト中心のレーベル運営がその大きな特徴だった。

 一時収束したがまた復活。ヒップホップなどにも積極的に関わり、つねに先進的なスタンスを変えないブルーノートのドキュメンタリーだが、圧巻はロバート・グラスパーらの若手アーティストと、ジャズのレジェントといっても過言ではない大御所、ハービー・ハンコックとウェイン・ショーターとがコラボレートするセッションの様子だ。

 世代を超え、ジャンルを超え、同じレーベルに集う新旧のアーティストの演奏を聞くだけでもこの映画の価値はある。

 もっとも、ジャズに暗い人にとってはその衝撃は少ないだろうが、いい演奏であることに違いはない。地方ではこういう映画はまず劇場にかからないので、触れる機会も限られるが、今は配信の時代。ありがたいとつくづく思う。

平和の祭典?2021年07月23日 09:06

 今日、国際大運動会が始まるという。
 なんでも「平和の祭典」とやらいう二つ名があるらしい。

 実際は「分断の祭典」であろう。

 もはや何の大義もない。利権と欲望にまみれた一大ショーである。おまけにメインの出し物は、一応建前上素人ということになっている人々の運動発表会及び競技会である。まあ、平たく言えば視聴者参加番組である。内容の大半が宣伝と番宣であるのは、日頃その手の「バラエティ」と称するテレビ番組を考えれば想像がつく。

 だからイベント分野でもその程度の連中が群がる。この国で「お笑い」といえば、本質はいじめと虐待と新人なぶりであり、その中で生き延びてきた連中の横柄で勘違いも甚だしい言動である。

 この傾向は「お笑い」だけに限らない。スポーツ界も、芸能界も、政治の世界も皆同じ。まさに「お笑い草」である。これだけ「お笑い」まみれのなかで、もはや何を笑えというのか。スポーツにのめり込み、美技を披露してくれる選手に素直に拍手を送ることが、「お笑い草」を増長させ、「草ぼうぼう」の荒れ地を生むことを考えると、なんともやりきれない絶望的な気分になる。

 この「お笑い草」の荒れ地を維持するために、「お笑い」連中がヒエラルキーを作る。トップは自分の地位を保持するために汲々とする。「お笑い草」程度の人間が他人を牛耳るのだから、当然手法はスターリンと同じ。粛清と恫喝である。残るのはトップ以下、「お笑い草」たちの「お笑い草」ばかり。恫喝によって情報もほしいままに操作し、逆らえば人事権や許認可権をタテに圧力をかける。こんな集団は指数関数的に劣化し、自滅する。「ダイホンエイ」を忘れた多くの無辜の人々を巻き添えにして。

 その後に何が残るのか。学校ではさらりとしか教えない。だが、世界にはそれを決して忘れない、忘れられない人々が大勢いる。それに思いを致すことがない社会が、国際的な行事を主催することなどありえない。コロナ禍が問題なのではない。この社会が主催に値する成熟を見せていないことのほうが問題である。

 そして社会とは、「多くの無辜」が成り立たせているものでもある。わたし自身を含めたひとりひとりが責任者だ。お上の責任でも、「お笑い草」連中の責任でもない。そういう連中を内部浄化できない、我々全ての責任だ。国際大運動会のぶざまなありさまは、そのまま我々全ての実際の姿の象徴であり、国民全ての象徴だ。目を背けずに直視すべきだろう。

 せめて抵抗だけでもしたい。たとえ叶わぬまでも。ほんのわずかなことであっても。