「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」を観る2022年02月01日 20:49

 「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」を観る。

 海外では、ゴジラは人類の味方であり、怪獣の王なのだとつくづく実感した。あくまで擬人可能な存在。言ってしまえば昭和のVSシリーズの、あのだんだんと目玉がでかくなり、可愛らしくなり、一発ギャグまでかますようになったゴジラである。

 そして我々の多くはそれを見て、低俗な子供だまし映画だと考えて、年をとるにつれてゴジラから離れ、見下していくようになる。そんな我々があるべきゴジラの姿に思いを馳せれば、あの初代の、ただそこに立ち、そこを歩くだけで脅威となる、人間とは全く接点の持てない異質で、手も足も出せない存在であり、人類を滅亡させかねない神話的兵器と生贄とでかろうじて抑え込んだ、しかし絶滅はさせられなかった、人智を越えた恐怖の象徴が頭に浮かぶ。

 現代に蘇った恐怖の象徴が「シン・ゴジラ」であり、我々はそれを心の中で待ち続けていた。しかし、海外はそんなゴジラを待ってはいなかった。「シン・ゴジラ」の海外での不振の理由である。

 それにしても、散漫な映画である。日本では「ガメラ」とも「ゴジラ」ともつかないこの「ゴジラ」。いきなり唐突に何の犠牲もなくオキシジェン・デストロイヤーを喰らい、傷を癒やすために「寝る」。犠牲をはらってまで蘇らせたゴジラだが、犠牲に対する思いは軽い。なにせゴジラに「気合を入れる」程度の扱いだ。ラドンの扱いも、単なるチンピラ扱いのギャグメイカー程度。モスラとゴジラは「いい仲」扱い。悪役も薄っぺら。昭和・平成ゴジラの悪いところもしっかり受け継いでいる。

 さらに核・放射線に対する意識の低さ。どう考えても被曝で無傷ではいられない状況での登場人物の無防備な動き。核爆発が直近で起きたのに、揺れる程度で無事に航行できる潜水艦や航空機。電磁パルスのことなど眼中にない。

 ツッコミどころ満載である。童心に帰って、でかい目玉のかわいいゴジラのアメリカ版リブートを楽しむ気持ちで観るべき作品だ。そのうちアメリカゴジラも後ろ向きに空を飛ぶようになるかもしれない。

raspberry pi 400上のaudacityの日本語化2022年02月02日 20:47

 Raspberry Pi 400のスターターキットで、付属のmicroSDカードを使ってRaspberry Pi OSを起動、アップデートも行って、sudo apt install audacityコマンドでaudacityをインストールした。そこまではすんなりと行ったのだが…

 メニューが英語のまま。EditからPreferenceに進み、Languageを確認すると、Systemとなっている。プルダウンしてもおなじみの「Nihongo」がない。Raspberry Pi OSの言語設定は日本語UTF-8。フォントの関係かとも思い、IPAフォントとNotoフォントもインストールしたが、メニューの設定言語に日本語は現れず。

 AudaciousやKdenliveなどはすんなり日本語メニューとなっているので、ますます首をひねる状態。

 Raspberry Pi Imagerで最新Raspberry Pi OSをセットしたmicroSDで起動したRaspberry Pi 3B+に同様にaudacityをインストールすると、こちらは最初から日本語メニューが現れる…

 英語メニューで操作すればよいだけの話ではあるが…

節分2022年02月03日 21:54

 もともと、立春・立夏・立秋・立冬の前日のことをすべて「節分」と呼んでいた。

 いつの頃からか、「追儺」が行われる立春の前の日の節分だけが「節分」として残っている。

 豆撒きの大豆もその殆どが海外産となり、供給量の現象と円の通貨価値の下落に円安も響いて、お高い食品となり、フードロス問題も含めて、あちこちに撒き散らすのは気が引ける。

 恵方巻きはローカル風習だったはずなのに、商魂たくましいどこかが全国区にしてしまった。おかげで大量生産・大量売れ残りと、これまたフードロスのシンボルと化してしまった。

 豆は魔除けの力があると信じられていたわけだが、大豆は優秀な食品であり、栄養状態の良くない昔であればこそ、体力・抵抗力の増進のシンボルとして、病魔を祓うと考えられていたのだろう。小豆も同様で、鏡開きのぜんざいや赤飯なども似たような考えが底流にあるのかもしれない。

 気がつけば小麦粉も値上がりで、庶民の(そして貧しい若者たちの)味方のインスタントラーメンも値上がりという。豆はそうそう撒けないが、おかげで鬼は跋扈して、庶民を苦しめているのだろうか。

「鳥の巣」の大運動会2022年02月05日 12:01

 「鳥の巣」の大運動会が始まった。

 TVもラジオもその話で持ち切り。なにを浮かれているのやら。

 その浮かれ騒ぎの陰で、世界も日本も、自分の周囲も、大変なことになりつつあるというのに。

 現実から目をそらすような浮かれ騒ぎはいかがなものか。気晴らしがないとやっていられないという考えもあるだろうが、気晴らしは浮かれ騒ぎとは違う。現実をしっかり見つめた上での気晴らしでないと大変なことになる。

 自分も含め、そのさじ加減は難しい。

「紙」か「データ」か2022年02月06日 15:16

 本は読むのだが、田舎者ゆえ店舗にあるとすぐ買ってしまう悪癖が抜けない。田舎では一度店舗からなくなると、本の入手は一気に困難になってしまう。注文しても要領を得ないままになったり、すでに版元品切れになってしまっていたり…手元不如意でそのうちにと思っていると、店舗から消え去り、ネットでは品切れ、中古価格は高騰、そんなことも珍しくない。

 第一、読む速度も考慮せずに買い込むので、勢い「積読」が増える。気がつけば家中本があふれるという体たらくになってしまう。

 そこに行くと電子出版のデータ本はありがたい。大判の雑誌などはピンチイン・ピンチアウトしないと字が読めずに面倒なこともあるが、活字本なら問題ない。だいたい何冊あってもサイズも重量も同じというのがありがたい。長大なシリーズ本も平気である。

 それに、電子出版の場合、紙の本より若干お値段も手頃なことが多い。これは魅力だ。

 だが、物としての本の所有の喜びやワクワク感は電子出版にはあまり感じない。読み終わったときの達成感も、物としての成果が見えないので、なにかあっけない。読み終わった時、ほんとにこれで終わったの?と感じてしまう。紙の本なら物理的に終わりがわかるのだ。

 棲み分けが一番いいのだが、棲み分けの線引きがまた一苦労。