「アメリカン・ユートピア」を観る2022年04月05日 23:31

 「アメリカン・ユートピア」を観る。2020年、スパイク・リーが監督した、デイヴィッド・バーンのコンサートツアーをもとにした2019年のブロードウェイのショーの映画化。

 トーキング・ヘッズのフロントマンだったデイヴィッド・バーンが2018年に発表したソロ・アルバム「アメリカン・ユートピア」は、ラジオで発売当時流れた曲に惹かれて即購入、気に入ったアルバムだった。当然この映画も観たかったのだが、なにせCOVID-19の最中、おまけに地方のシネコンではこのようなコンサート映画はかけてもらえない。配信でやっと観ることができた。

 冒頭、大脳の模型を前に座るデイヴィッド・バーンからショーは始まる。大脳の接続は成長に連れて失われていくと語るバーン。その伝で行くと、私はずいぶんおバカなのだろうと観客の笑いを誘う。2019年、バーン御年67歳。

 しかしなんともパワフル。身のこなしもシャープ。語りもユーモアに富み、そして筋の通った政治に対する姿勢。日本では政治を語ると叩かれるのが音楽界なのだから、羨ましい限り(立派に成人しているきゃりーぱみゅぱみゅが政治を語って失礼千万な発言を投げかけられた一方で、彼女の発言時より若い18歳に投票しなさいというとんでもなさよ!)。

 バンドも白人高齢男性のバーンを中心に、様々な年齢、様々な出自であり、バーン自身も移民と語る。多様性を具現化したようなバンドが、それぞれのパフォーマンスを披露しながらステージを組み上げていく。

 人種差別による犠牲者の名前を呼ぶ曲。もっとも差別する側に属するバーンが、差別する側に属する観客をも巻き込んで、プロテストする。剥き出しの怒りも、過剰な懺悔もなく、共感と鎮魂と反省を込めて。

 終盤、バンドのメンバーがそれぞれのメンバーに合唱して挨拶をするシーンがある。キリスト教のミサで行われる「主の平和」を祈り、互いに挨拶を交わす行為を思わせる。宗教は決して排他の根拠ではなく融和の根拠になりうることをさり気なく示すシーン。

 選挙についての言及もユーモア混じりにチクリ。これはアメリカに限らず、日本でも同じだ。

 ラストは客席にバンドが降りて一周。トーキング・ヘッズ時代のあのヒットソング、日本でもホンダの大ヒットしたコンパクトカーのCMソングでおなじみの曲。このショーの文脈で聴くと、また違った意味合いを感じることができる。

 もちろん、スパイク・リーという監督の作品性で切り取ったショーなのだから、それに違和感を感じる人もいるだろう。しかし、バーンが訴えたかったことは間違いなく伝わっている。むしろ音楽と政治を別物と捉えている我々の方がリーやバーンにとって違和感を感じている存在なのかもしれない。

 アルバムのように、何度も楽しめる、そして考えさせられる、しかし重苦しくなく、優しく、力と希望を与えてくれる作品。

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