「シン・ウルトラマン」を観る2022年06月04日 20:58

 「シン・ウルトラマン」を観る。コロナ禍で公開が遅れ、やっと公開された作品。

 まず、あのカラータイマーがない。これは当初の成田享のオリジナルデザインを踏襲したもの。あのカラータイマーは大人の事情で後付けされた上、3分間という設定は小学館の学習雑誌あたりが作った設定である。オリジナルの「ウルトラマン」の変身シーンを見れば、明らかにカラータイマーはない。

 しかし「銀色の巨人」は本当に銀のメタリック光沢で再現されている。ここはCGの強みだろう。だからこそ最初にウルトラマンを目撃した時の浅見弘子のため息混じりの言葉「…きれい…」が生きる。そう、このウルトラマンは「強い」「かっこよい」ではなく、「きれい」なのである。そこから「神性」も自然と生まれてくる。

 ウルトラマンが地球上での素体としたのは神永新二。演じる齊藤工の世離れした佇まいがマッチしている。ウルトラマン化した神永はあくまで「外星人」として人間を観察、評価しているので、彼の言動はミスター・スポックかデータ少佐のようにどこかズレているのだが、それがわざとらしくない。年齢の点もあるが(若いと「ウルトラマンメビウス」の「不思議ちゃん」となってしまう)、超然とした姿がいい。

 オリジナルのウルトラマンは、護送中の怪獣を取り逃がした挙げ句、怪獣逃走先の現住知的生命体(ハヤタ)と衝突して殺害するという二重の不始末をしでかし、怪獣は現地で殺処分、ハヤタを素体にしている(人格はどうやら今回のウルトラマンよりもうまく統合しているようだが)ことで罪滅ぼしをしようとしているフシはあるが、結局上司のゾフィーに尻拭いしてもらうなど、冷静に考えればとんでもない奴ではある。今回のウルトラマンも人類に対しては大きな過失をしでかすのだが、彼は文字通り命がけでその失地を挽回しようとする。「神」としてのウルトラマンから、一つの生命体として、地球人と共にある存在として変化していく過程は、「ウルトラマンメビウス」の影響を感じる(そういえば「ウルトラマンは神ではない」という言葉も、「ウルトラマンメビウス」の中でハヤタ=ウルトラマンがメビウスに告げた言葉だったように記憶している)。

 オリジナルのチープな部分をあえて残しているような部分や、オリジナルの有名なチョップのリアクションなど、オールドファンには笑える点も。一方で怪獣の着ぐるみを改造して制作費と制作時間を削るという大人の事情の部分を設定によって説明付けるところも、オリジナルに対する敬意だろう。そんな中でオリジナルには見られない「生と死」をテーマとした後半は、「ウルトラマン」というアイコンに執着する観客には辛いかもしれない。

 第二期ウルトラマンや平成ウルトラマンをベースにしている観客には、普通の映画と受け止められるだろう。第一期を期待する観客には、後半が辛いだろう。だが、ウルトラマンという作品に対する昨今の様々な言説を楽しんできた観客には面白く感じるのではないか。アイコンに隠された重いテーマ(「ウルトラセブン」にはその面がクローズアップされてくる)を考えると、「シン・ウルトラマン」は、多様性と受容、コミュニケーションと信頼の物語である。

 そうそう、「シン・ゴジラ」では最大のウィークポイントはヒロインの軽薄さが拭いきれないところだった。どう考えてもあのヒロインが次期大統領候補を狙えるとは思えない(「アイアン・スカイ」のアメリカならともかく…)。今回のヒロインは、知性をきちんと感じる。だから多少コメディリリーフがあっても、地に足がついたキャラクターとして機能している。空々しささえ感じた「シン・ゴジラ」の二人とは対象的で、今回の神永=齊藤と浅見=長澤には十分感情移入できる。このあたりは「ウルトラセブン」の雰囲気だ。

 余談だが…もし「シン・ウルトラセブン」ができるとしたら、物語の最後、「ダンは死んで帰っていく」んだろうか…

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