暴力について〜今回の事件について〜2022年07月09日 16:30

 暴力は最大の権力だと思う。誰でも行使することができ、誰もが圧倒的に他者に対して優位に立つことができる。自分に対する反論を完璧に封殺することができ、自分の恣意性を完璧に現実化できる。

 気に入らないやつは殺せ、である。

 これではあまりに身も蓋もないと感じるのだろうか、ここに一つ理屈をつけて婉曲化して、

 自分が「悪」だと思うやつは殺せ、となる。

 そのうち、自分を正当化したくてたまらなくなるので、自分をカットする。

 「悪」いやつは殺せ。である。かなり危ない。

 さらに「悪」というものが相対的なものだと気づくと、こう変換する。

 神仏に仇なすやつは殺せ。

 神仏がオカルト的だと感じると、こうする。

 社会の(世の中の・国の)敵は殺せ。

 そのうち暴走すると、究極はこうなる。

 自分以外は(信用ならないから)殺せ。

 もはや民主主義どころの騒ぎではない。暴力の本質はここにある。権力も同様。どちらも必ず人間を腐敗させ、他者の存在を否定するという副反応を持っている。自分がどこまでその腐敗の進行に耐えられるのか、どこまで他人の存在を許容できるのか。それがその人間の持つことができる「権力の限界」であり、ほとんどの場合、その限界はその人間が求める権力維持の時間より圧倒的に短い。

 テロで命を落とした元首相の生前の言動には、肯んずることのできないものもあったが、それは彼の生命と引き換えにするほどのものでは、断じてない。人間は完璧ではないのだから当然だ。気に入らなくても、同意できなくても、その人間の生命を強制的に剥奪することは誰にも許されない。生命の剥奪権がないのは政治家であっても、国家元首であっても、一般市民であっても同じだ。批判を受けながらも、必死に自分の思う国のあるべき姿を現実化しようとした氏の逝去に、衷心から哀悼の意を表したい。

 タイミング的な、そして被害者の社会的立場の上から、民主主義に対する挑戦であるかのように語られているこの暗殺事件だが、政治的な文脈での民主主義の問題はその本質の一部にすぎない。倫理としての民主主義、他者尊重というモラルの崩壊(と言うより、未成立という方が適切か)の問題の闇は深い。

 自分にとって「気に入らないやつ」には、自分の方も「気に入らないやつ」と思われているだろう。自分が生き延びるために、「相手より先に殺して、さらに他のやつに殺されないようにビクビクしながら生きる」のか、それとも「どちらも生き延びて、安心して暮らせる世の中にする」のか。答えはわかっているはずだ。

 だが、それでも間違った答えを選ぶ者がいる。今も、昔も、この国にも、どこの国にも。