「反撥」を観る2022年08月01日 21:06

 「反撥」を観る。1965年のイギリス映画。

 監督はロマン・ポランスキー。主演はカトリーヌ・ドヌーブ。この組み合わせで不穏な映画でないと考えるほうが不自然。ドヌーブは当時まだ20台前半、とにかくきれいだが、その分どこかアヤしい。彼女が演じるキャロルは妙に潔癖症で、おまけにどちらかと言うとトロい。いつもぼおっとしていて、仕事も上の空。彼氏もいるようだが、どこかよそよそしい。キスされると彼氏を突き放してまっすぐ自宅の洗面台に駆け込んで唇を拭うほど。

 ここまで来ると、ただの潔癖症ではないことがわかる。性嫌悪だ。

 彼氏の悪友共も、現在からすればとんでもない女性蔑視のセクハラ発言を彼氏に投げかける。美人のキャロルを取り巻く性的社会環境の劣悪さも伝わってくる。彼氏が悪友にブチ切れるのも当然と言えば当然。それぐらい彼氏は真面目男だが、キャロルをきちんと受けとめることはできない。そこは残念ながら、やはり男性天国の社会の男である。

 キャロルが同居しているのは姉。二人暮らしだが、姉はしっかり所帯持ちの男を連れ込んでいる。安アパートなので、夜は当然…キャロルの嫌悪は高まるばかり。姉がなぜそんな相手と…と考えると、これも伏線かもしれないが。そんななか、姉と姉の相手がイタリア旅行に出ていく。キャロルは一人アパートで暮らすことになる。そして、キャロルは次第に壊れていく…

 ドヌーブは「昼顔」でも性的な要因で常軌を逸していく女性を演じているが、こちらはあの作品とは正反対の方向での壊れっぷりだ。当時の制作コードでぼかされているのだが、端々にキャロルの性倒錯の痕跡が見て取れる。

 ラストシーン、キャロルの子供の頃のブリュッセルでの家族写真。影がかかって全体は見えない。見えるのは子供時代の怒りの形相のキャロルと、その視線の先にある、影の間から見える、おそらく父親の顔。当時のコードからすればギリギリなのだろうが、明らかにキャロルがなぜこうなったかを暗示している。

 ポランスキーの悪名が頭をよぎる。

「ブータン 山の教室」を観る2022年08月03日 23:29

 「ブータン 山の教室」を観る。2019年のブータン映画。パオ・チョニン・ドルジ監督作品。

 ミュージシャンとしてオーストラリアに単身移住の夢を持ち、大学卒業後のお礼奉公としての5年間の教師生活には全く身が入らない、問題教師の主人公、ウゲン。あまりの不熱心さに、とうとうブータンの北の辺境、ルナナへの転勤を命じられる。

 このルナナ(実際に存在するらしい)が、なんとも凄い辺境。首都からバスで半日以上移動した上に、それから7日間歩いて移動しないとたどり着けない。ヘタレのウゲンはもうヘロヘロだ。そんなウゲンを村は総出で出迎える。電気も満足に供給されないこの辺境の村で、早速ウゲンは村長に、とてもこんなところではやっていけない。もともと教師なんてやめる気だったとボヤく。そんなウゲンを村長は叱るでもなく、仕方ないとウゲンの帰りの準備を始めてしまう。とはいえ、7日もラバと移動してきた直後のこと、ラバも人も休まなければ帰りの旅には出られない。

 翌日、学校(もちろん小学校だ)の委員長の少女、ペム・ザムが寝坊したウゲンを起こしにくる。とりあえず学校にいくウゲンだが、教室には黒板もない。しかし子どもたちの目はいきいきとして、意欲的だ。そんな姿にウゲンの心は動き始める。ウゲンはどうやら教師に向いていないどころか、とんでもなくいい教師の資質を持っていたらしい。村人も子どもたちも、ウゲンを受け入れ、愛し、慕うようになる。おそらくは彼の前任者よりも。

 村の大人も子供の教育に大きい期待を寄せている。村長は「先生を大事にしなさい。なぜなら先生は未来に触れることができる人だからだ」と村民に教えている。ウゲンはやがて、子どもたちに、そしてルナナの雄大な自然に心奪われていく。

 しかし、辺境の村は冬は雪で閉ざされ、外界と遮断される。冬が来る前にウゲンは村から帰るか、ひと冬村で過ごすかの選択を迫られる。そして、オーストラリアへの渡航ビザが降りたと連絡が届く…

 王道中の王道のようなストーリーだが、子どもたち、村人たち、そして自然の美しさがその王道をしっかり支えている。したり顔のスレた批評など、この作品の前では虚しい。ラスト、ウゲンの歌はなんとも気の抜けた「ビューティフル・サンデー」から、ルナナの民謡に切り替わる。その民謡がどのように周囲に伝わるか、そこはエンディングとなって提示されない。そういう終わり方もまた定番中の定番。基本に忠実な教科書的な映画ともいえるが、その定番が少しもイヤにならない。素朴な世界、素朴な心には、素朴で基本に忠実な、小細工のない作品がよく似合う。

 そしてなんといっても印象的なのが委員長のペム・ザム。子どもと動物には勝てないというのがドラマの常識だが、まさにそのとおり。これもまた王道中の王道。横綱相撲で寄り切ったような、清々しい、いい映画だ。こういう作品で頭の中をきちんとリセットしたいと、心からそう思える。

「アグレッサーズ 戦闘妖精・雪風」を読む2022年08月06日 17:45

 「アグレッサーズ 戦闘妖精・雪風」を読む。神林長平の「雪風」シリーズもこれで4作目。5作目も現在連載中。

 本当に長いシリーズになった。シルフ時代の雪風の終焉で終止符を打った第一作から、思弁性、言語と世界認識といった神林作品の主流へとの接近と、次第に難解度も増して、前作「アンブロークンアロー」では一気にハードな理論合戦(というより、認識合戦というべきか)となっている。

 正体不明の異星知性体、ジャムの侵攻が、地球人ロンバートのジャム側への裏切りと全面宣戦布告で新たな局面を迎える前作、超空間で地球とつながったジャムの本拠らしきフェアリイ星でジャムと最前線で戦うフェアリイ空軍への大打撃、そして南極海上でのジャーナリスト、リン・ジャクソンと主人公深井零との印象的な出会い。AI知性体としての「雪風」との腹の探り合いも続く。

 しかし今作はどちらかと言うと、大打撃を受けたフェアリイ空軍の立て直しと戦略変更がメインとなる。零と主治医のエディスとの、なんとなくほのぼのとする、見ようによってはバカップルのような会話、零と相棒となる桂木とのちょっととぼけたようでいながら、鋭い直感力を持つ言動がいいバランスでストーリーをすすめていく。

 新キャラクターも登場するが、日本のアグレッサー機、飛燕と共にフェアリイに来た伊歩も印象的だ。フェアリイ空軍に来るパイロットはみな一癖ある、ソシオパス系のキャラクターだが、彼女もそんな一人。だが、ラストでは意外とキュートな一面も見せて魅力的だ。

 そして、やはり「雪風」。何を考えているかわからないといいながら、一番ジャムとの戦いに「燃えて」いるのは雪風だろう。クーリィの「雪風はやる気だ」という一言はいいえて妙だ。本作ラストでの登場の仕方がまたいい(そして、そんな雪風の動きをとっさに察して行動する桂木も、コミックリリーフ的な登場とは言え、切れ者にはちがいない)。

 単なる「戦闘」ではなく、政治力も求められるようになった、新たなジャム戦。物語も思弁を重ね、さらに進んでいく。楽しみだ。

最近困ること2022年08月07日 16:12

 最近、ちょっと困ることがある。

 おなじみのQRコード。長いURLを手打ちするのは面倒だし、紙ベースでURLを知らせるときにはたしかに便利だ。スマホやタブレットのカメラでQRコードを読み取らせれば、URLを参照することも、そのままアクセスすることも簡単。

 だが、これがデスクトップPCだと、そうはいかない。カメラが必ずあるとは限らないからだ。現に今このテキストを入力しているPCにはカメラがない。(イケない姿をカメラをハックして録画したから金を払えという詐欺メールが来ると、鼻で笑える…やれるもんならやってみろ!)

 そして最近は、URLがQRコードのみしか提示されていないことが増えた。カメラなしPC(セキュリティの関係で、そういう端末を支給される職場は存在する)などでは、これは致命傷となる。仕事にならない。

 便利なようで困ってしまう。どんな端末もすべてカメラを持っているわけではないのだ。そこを考慮していただかないと。

 業務用の業者メールも最近はHTTPメールのみという、ルール違反のものが増えた。ネットワークセキュリティの関係で、職場によってはHTTPメールは表示できない仕様の場所もあるのだが、そういうことはあまり考えてもらえないようだ。

 いずれも、もっともプリミティブでプアな状態の相手をきちんと考慮べきだという、ネット初期からのモラルや礼儀、配慮が失われていることを表している。

 情報という科目が大学入試に取り入れられ、高校で必須となるというが、こういう古典的かつ重要なモラルや礼儀、配慮はきちんと教えられるのだろうか(というより、教えられていないから現状のような困ったことが起きているのだが)。

 現実社会でも、ネット上でも、持てるものが持たざるものを無視してスタンダードを強要するのは横暴だ。

「黒いオルフェ」を観る2022年08月09日 23:37

 「黒いオルフェ」を観る。1959年のフランス・ブラジル・イタリア合作映画。マルセル・カミュ監督作品。

 アントニオ・カルロス・ジョビンのあまりに有名なテーマソングでよく知られているが、なかなかご縁がなかった作品。ギリシャ神話「オルフェオとエウリディーチェ」の話を下敷きに(「古事記」だとイザナギの黄泉下りの話)したストーリー。

 冒頭、妙に怯える様子のヒロイン、ユリディス。そんな彼女が市電の運転手でギターとサンバの名手、オルフェと出会う。オルフェにはミラという彼女がおり、婚姻届を出しにいくのだが、独占欲と気位の高いミラにオルフェは少々うんざりしている様子。ユリディスとオルフェの出会いはカーニバルの前日。夜はカーニバルの練習となる。

 カーニバルのために貧しいオルフェオたちはなけなしの金をつぎ込む。すでに祭りの熱気で理性はかなり飛んでいる。ユリディスを怯えさせていた謎の男が現れ、ユリディスのいのちを狙う。オルフェはユリディスを助け、紳士的に一夜を過ごそうとする。しかし、宿命的に惹かれ合う二人は結局夜を共にすることになる。

 なんといっても圧巻なのはカーニバル。サンバのステップの凄さ、踊りの凄さに圧倒される。熱狂と混乱の後、カーニバルが終わった朝には、彼らには重く辛い現実が待ち構えている。

 オルフェも登場したときはただのチャラい男と言ったふうだが、質から受けだしたギターを引き始めると顔つきが変わり、サンバの衣装を身につけると冒頭とは別人のようだ。そんな彼がラスト、現実に帰るシーンはどこか寒々としている。まさに「祭りのあと」だ。

 ストーリーはなんといっても神話なので、深く突っ込むのは野暮というもの。ここではカーニバルの熱気に当てられるのがいいのではないか。